松村:そうそう(笑)。高校生の時はね、世界史の先生のモノマネもよくやってましたよ。声がでかいのに、イントネーションがおかしくてね。そしたら先生も機嫌が良くなって、「お前代わりに授業しろ」って言われて、それでみんなの前で披露したらウケるもんだから気持ちよくなってね(笑)
しかも高2の時に留年しているんですよ。さすがにクラスメイトも1年間同じネタをやってると飽きられるんですけど、留年したらまだ僕の芸を観てない後輩が入ってくる。そうするとまたウケるわけです。
要は、お客さんの入れ替えみたいな(笑)。劇場でいえば、昼の部と夜の部のダブルヘッダーで両方とも調子良い感覚です(笑)。いま思えば、その頃から芸人になりたい気持ちが強くなった気がしますね。
芸能界入りのきっかけは片岡鶴太郎!?
澤井:昼の部と夜の部の入れ替え(笑)。めちゃくちゃ面白い表現ですね!
松村:そうしたら学校でも、気にかけてくれる先生がちらほらいてね。物理の先生がビデオ撮ってくれていたり、国語の先生は「もう芸能界に行っちゃえよ」という雰囲気で。もちろん「ふざけたこと言ってんじゃない」と注意する先生もいましたけど、割と当時にしては応援体制だったんですよ。
澤井:学校の人気者ですもんね。じゃあそこから太田プロを目指すわけですか?
松村:当時、僕の動画を撮ってくれたビデオを物理の先生が吉本に送ってくれたことがあるんですよ。その時はビートたけしさんのモノマネでしたが、僕が高3の時にフライデー襲撃事件がありましてね。なんだか、たけしさんのモノマネやりづらいなあと。
まあそれで結局、大学に進学するわけです。でも芸能界には進もうと思っていたので、当時からフジテレビ系列の『テレビ西日本』でケーブルさばきのバイトをしながら、素人のモノマネ番組のオーディションに出ていたんですよ。そのとき『ツノだせヤリだせ―たけし軍団物語』を読んでいたら、井手らっきょさんも大学出てから芸人になって、こういうパターンもアリだなと思っていたんです。
その一環で、『発表!日本ものまね大賞』に出演した時、敢闘賞を取ったんですね。そのあと仕事でたまたま片岡鶴太郎さんにお会いしたら、ものまね大賞の時に披露してた松村達雄さんのマネが良かったよと褒めて頂いて、東京で話を聞いてもらう機会があったんです。
当時、フジテレビのスタッフからは「期待するな、観光のつもりでこい」と言われながらも、『ひょうきん族』の撮影スタジオにお邪魔したんです。そこで思いきってたけしさんのモノマネを披露したりしてね(笑)。なんだかんだで鶴太郎さんが気にかけてくれて、太田プロに入ることになりました。
澤井:鶴太郎さんからのスカウト! すごいシンデレラストーリーですね。
松村:鶴太郎さんはスカウトするのが非常に多いんですよ。山田邦子さんとか柳原可奈子ちゃんとか、最近ではレッツゴーよしまさもそうでしょ。「いいのがいるぞ」となれば、すぐに声をかけてくれる。
時代の流れもあったんでしょうね。当時フジテレビは黄金時代で、『なぜフジテレビだけが伸びたのか』っていう本が売れたぐらい。モノマネ番組も色々ありましたから。テレビ東京で放送されていた愛川欽也さんの『全日本そっくり大賞』や、フジテレビの『オールナイトフジ』もその頃に出演させてもらいました。カメラの前であがっちゃって全然駄目な時もありましたけど、モノマネ番組のオーディションは当時多かったんですよ。
澤井:デビューしたての頃から、看板番組に出演するなんて、本当にすごい話です。その後は順調だったんですか?
松村:いや〜、どうなんでしょうね。ちょうどデビューから数年した頃に、電波少年が始まるんですよ。もうあの時は本当にしんどかった……(苦笑)