『北ウイング』で起きたトラブル

 新『北ウイング』で再出発をした明菜だが、かつて成田空港の『北ウイング』で、あるトラブルを起こしていた。冒頭の男性が話を続ける。

「レコーディングのため、明菜とNYへ向かう予定だったんです。確か『サザン・ウインド』の収録でしたから、ちょうど『北ウイング』が発売された'84年1月のこと。明菜がちゃんと来てくれるのか心配で、私は“明日、来るよな?”と前日に何度も確認していました。明菜は“行くよ! だって楽しみだもん”と言うので、少しだけ安心していたのですが……」

 そう話すのは、音楽プロデューサーの島田雄三氏。明菜の初代音楽ディレクターとして活躍し“中森明菜の育ての親”ともされる人物だ。

「次の日、私が空港に着くとスタッフが必死の形相で駆けてきて“明菜が来ません!”と言う。原因は病気だというので、昨日まで元気だったのに、何の病気かと聞くと“歯痛です”と(笑)。今のように携帯電話がありませんから、つかまえようがない。しょうがないので、明菜には遅れてでも来るよう伝える指示をして、私は先にNYへと向かいました」

 成田空港やNYでは、テレビ局による中継の撮影が行われる予定もあったため、島田氏はその対応に追われた。

NYの現地で食事の予定を立ててくれていたレコード会社の重役など、各方面に頭を下げて、私が宿泊するホテルに戻りました。すると、ホテルのスタッフが私にメッセージが届いていると言う。イヤな予感がしつつ、届いたメッセージを見てみると《明日、明菜は行きません》と書いてあった(笑)

 やむなく帰国した島田氏だったが、自宅でひと息ついたときのこと。

明菜から電話がかかってきたんです。電話口で“どうしたんだ!?”と言うと、泣き出しそうな声で“ごめんねぇ……”と。“ごめんじゃないだろ……行くって言ったからテレビ局とか、みんな準備していたんだよ。どうするんだ!!”と怒ると“ごめんねぇ……”って(笑)。顔が腫れたと話していた記憶がありますから本当に歯が痛かったのでしょう。腫れた顔でテレビに出たくなかったのだと思います

 結局、スケジュールを短縮する形で、島田氏と明菜は再びNYに向かって、そこから最終的にバハマまで行ってレコーディングをすることに。

「いよいよ明日レコーディングというときに、明菜が高熱を出して救急車で運ばれたんです。殺人的なスケジュールで、とにかく忙しかったですから。まあ、でも、明菜はよく頑張ったと思います」

 大変だったことも、今となっては島田氏にとってかけがえのない思い出に。

「正直に言えば、新『北ウイング』がどんな仕上がりになったのかは気になります。しかし、その評価について、私が口を出すことではありません。これだけ苦労させられて、でも、これだけ楽しみを与えてくれたアーティストは、ほかにいません。私が生きているうちに、また、どこかで会いたいですね」

 北ウイングから再び飛び立った明菜。しかし、いまだ先の見えない夜間飛行は、無事に着陸できるか─。