学生生活は修行の日々
そこから、普通とはちょっと違う学生生活が始まった。
「中学・高校時代は、夏休みや冬休みを利用して、融通念佛宗の本山に寝泊まりして修行。毎朝4時ごろに起きて、お経を読んだり講義を受けたりを夜9時まで。これが、意外と楽しかったんです。同年代で自分と同じような生まれの子たちと交流できる機会はなかったし、修学旅行のような感じで。家に帰るのが毎回、寂しいくらいでした」
高校に入学するとラグビー部に入ったが、途中で退部することに。
「夏休みの練習に参加できない理由を説明するには、寺の跡継ぎであることを言わなくてはならない。でも、“ちょっとお経読んで”とか言われるのが嫌で、言いたくなかった。だから“旅行です”なんて嘘をついたら、許してもらえなくて。うまく説明できず、やめることにしました」
大学に入ると、寺の手伝いがどんどん増えていった……と思いきや、籔本さんは意外な生活を送っていた。
「18歳のころ付き合っていた女性にフラれたのですが、あまりのショックで立ち直れないでいました。その女性に言われたのが“あなたは『自分』がなくて、頼りない”と。当時は意味がわからなかった。でもその後、スノーボードにハマって、自分でサークルを立ち上げて、とにかく熱中した結果、自信を持つことができたときに、“こういうことか”と。
まず自分の得意なテリトリーを見つけて、そこで一番を目指すことの大事さに気づいたんです。自信がついた結果、彼女もすぐにできました(笑)。面倒をみてくれていた伯父は、本当はもっと寺の仕事を手伝ってほしかったはずだけど、何も言わずに見守ってくれた。本当に感謝しかありません」
住職なのに字が下手すぎて…
青春を謳歌した籔本さんは、大学卒業後、当初の予定どおりすぐに寺を継ぐことに。
「23歳で住職はかなり早いので、周りにも“すごいな”と言われました。それまでずっと支えてくれた伯父は、言葉であれこれ言うよりも背中で教えてくれる人でした。大学を出るまでは伯父として接していましたが、23歳になって“師弟関係”になった瞬間から、自然と敬語に切り替わりました。住職に就任する式って、お金もかかるし、執り行うのがすごく大変なんです。でも、そこでも伯父はお膳立てしてくれました。その恩返しをしたいと思いましたし、檀家さんたちも自分が寺を継いだことを喜んでくれたので、“自分がなんとかするぞ”とスイッチが入りました」
現在、専念寺の檀家のまとめ役である“総代”を務めている淺井敦美さんは、当時の心境をこう語る。
「籔本さんが大学を卒業して住職として帰ってきたときは、うれしかったですね。みんな安心しましたよ。とにかくまじめで何事もコツコツやってくれますし、お寺に関することは檀家とみんなで話して決められるようにやってくれますから、そういう姿はすごく信頼できました」
一方、母・啓子さんは複雑な思いを抱えていた。
「うれしい反面、“この子の人生はこれでよかったのかな”というのが正直な気持ちでした。私が苦労してるから、この子も無理してるんじゃないかと。お金の面でも、苦労するんじゃないかと心配でした」
ところが、住職となった籔本さんが抱えたのは意外な悩みだった。
「とにかく、字が汚かったんです。下手すぎて、みんなに噂されてるんじゃないかと不安になるくらい。悩んでいたら、同じ宗派の住職さんが“習いにおいで”と声をかけてくれ、通うようになりました。その方は“ただ書いているだけじゃ上手にならないから、掲示板に書を張りなさい”と。当時、専念寺に掲示板はなかったのですが、檀家さんを交えた会議で、住職として初めて提案をさせてもらい、用意してもらえることに。初めのころは、難しい仏教用語なんかを張り出していました」
檀家とのコミュニケーションもとりつつ、順調に寺の業務をこなしていたが、一抹の不安を抱えていた。
「住職に就任したころから、将来的な“寺離れ”の予兆を感じていました。同世代の友人と話すと、“自分たちは世間とずれている”という違和感があったんです。核家族化が進む中で“お布施がしっかりいただける状態はいつまでも続かないと思いました。実際に檀家さんが離れたわけではなかったけど、社会の状況を考えてそう考えたんです」