国籍変更で葛藤し恩師と決別
この優勝を機に、中村監督はエスビー食品監督に専念するため早大監督を勇退する。その際、監督から「韓国籍を取得してはどうか」とすすめられた。そこには'88年のソウル五輪に金さんを韓国代表として出場させたいという思いがあった。
金さんは在日韓国人の3世。当時は通称の「木下」を名乗り、国籍も「朝鮮籍」(※朝鮮籍とは、日韓併合で日本に移住した朝鮮半島出身者や子孫で、戦後に韓国など他の国籍に属さない人のために設けられた便宜上の籍)のままだった。日本でも韓国でもなく、どの国の代表にもなれない。ひとりで悩み抜いた。
「振り返ればアイデンティティーが確立していなかったのだと思います」
国籍を変更するという決断が20歳の金さんにはできなかった。提案を断ると監督は激怒。「おまえは本当に頑固者だ。もう顔など見たくない、出て行け」と突き放された。金さんは千駄ケ谷組を離れ、ひとり暮らしを始める。
「その後、監督とは練習などでニアミスすることもありましたが、完全に無視でした。でも監督に見放されたから弱くなったと思われるのが嫌で、一生懸命頑張りました」
強固な意志が、そこにはあった。過去の練習日誌を見ながらメニューを組み立て、長い距離を黙々と走り込む。秋には日本インカレの30kmで優勝するなど実績も残した。
学生長距離界で一目置かれる存在となって迎えた、3年生での箱根駅伝。早大は1区の田原さんが区間3位の好走で流れに乗り、5区の金さんはトップで襷を受ける。3度目の山上りはコースを熟知し、ペース配分もばっちり。小田原中継所では僅差だった2位のチームをどんどん引き離していく。「山上りの木下」の異名どおりの走りで、5区の区間新記録を樹立した。
「完全に狙って出した区間新ですね。もうエースのような存在でしたから、きちんと仕事を果たした職人みたいな気持ち。早大の2連覇に相当貢献できたと思います」
田原さんも「今の時代なら山の神と呼ばれるような走りでした。まさに『昭和の山の神』ですよ」と称賛した。
最上級生として意気込みを新たにした5月、突然の訃報が舞い込む。中村監督が渓流釣りで不慮の死を遂げたのだった。
「破門された身でしたが、葬儀では棺も担ぎましたし骨も拾わせてもらいました。最後にありがとうございましたって、やっぱり言いたかったですけど……つらかったです」
と沈痛な面持ちで振り返る。
名伯楽の急逝が陸上界に与えた衝撃は大きかった。金さんもショックから調子を崩してしまう。しかし、最後の箱根駅伝に恩師への弔いの思いを込めた。区間トップの快走で、3年連続の往路優勝を遂げた。
「気持ちで立て直して、前年の区間新と2秒差、ほぼ同じタイムで走り切りました」
復路で逃げ切りを図った早大だったが、最終10区で逆転され総合2位に終わった。