リクルートに入社し孤軍奮闘
早大卒業後は実業団からの誘いもあったが、「中村監督以上の指導者はいない」との思いがあった。当時、陸上競技部のなかったリクルートに入社。面接の際に「マラソンに挑戦したい」と仕事に関係のない目標を語ったのに、面接官の役員は「やってみたら」と受け入れた。そんな自由な社風が気に入ったのだ。
そして、金さんはもうひとつ決意していたことがある。それまで使っていた「木下」ではなく本名の「金哲彦」と名乗ることだ。
「自分がどこまで通用するか挑戦したい気持ちはあるのに代表選手になれない。自分のアイデンティティーを確立する上で、第1弾として社会人になるタイミングで名前を戻したんです」
入社後、ランニングクラブを立ち上げ、ひとりで練習を始める。
「夕方になると会社を抜け出して皇居周辺でランニングして、また会社に戻って残業するんですよ。周りは何をやっているんだと思っていたでしょうね」
徐々に結果を残し、'87年の別府大分毎日マラソンでは3位に輝く。「リクルートの金選手」がテレビや新聞で取り上げられ、社内では宣伝効果があると大盛り上がり。本格的に取り組むことになり女子チームを設立、のちに五輪メダリストを何人も育てた小出義雄さんを監督に迎える。
そのころ、金さんは悶々としていた。エスビー食品所属で仲の良かったダグラス・ワキウリさんがソウル五輪で銀メダルを獲得したからだ。
「別大マラソンではワキウリに勝っていたのに、彼がメダルを取って自分はこのままでいいのか。このころの韓国マラソン界はまだ弱い時代だったので、持ちタイムの2時間12分は韓国代表になれる記録だったんです」
金さんが一大決心をする最後のきっかけが、'89年に中国で起こった天安門事件だ。「デモ隊と軍隊が衝突して若者がどんどん亡くなっていく。それを見て自分がやりたいことをやるべきだ、と。五輪出場を目指すなら韓国でやるのが自然だと思ったんです」
そして国籍変更へ動き出した。煩雑な手続きを手助けしてくれたのは、'36年ベルリン五輪で「日本代表」としてマラソンで優勝した孫基禎さんの息子・孫正寅さんだった。ソウルで生まれ育った中村監督は、孫基禎さんと共に五輪に出場した縁があった。
「中村監督も孫さんも僕にとって恩人でありマラソンの歴史をつくってきた人なので、2人からいろいろな影響を受けることができて幸せだなって、今でも思います」
歴史はつながっているのだと不思議な縁を感じた。
オリンピックへの挑戦と挫折
世界への最初のチャレンジは'90年の東亜マラソン。アジア大会の韓国代表を決める大会だ。しかし直前の合宿中に右ふくらはぎの肉離れを起こし、不安を抱えたままのスタートだった。
「最初の5kmぐらいで1回プチッて切れたんですよね。痛いまま走り続けたら20kmあたりでバチッて完全断裂しちゃったんですよ」
しかし金さんは諦めなかった。「やめられないんです。頑固者なので(笑)」。足を引きずりながらも30kmまでレースを続ける。
「最後は歩けなくなり、そのまま病院に運ばれました。人生最大の挫折ですね」
金さんの競技人生で唯一の途中棄権となった。
失意の中、ケガの回復途中だった金さんに、またもや悲報がもたらされる。北海道で合宿中だったエスビー食品の車が交通事故に遭う。早大の先輩である金井豊さん、谷口伴之さんを含む5名が亡くなった。
「自分のケガと先輩の事故が重なって、夏ごろにうつ病みたいになっちゃったんです。身体に力が入らなくって、トイレに這って行くぐらいで……」
2か月ほど抜け殻のような生活をしていた。立ち直るきっかけをくれたのが交際していた、たみさんのひと言だった。
「マラソンで失った自信はマラソンで取り戻すしかない」
この言葉で弱気になっていた金さんは再び走り出すことができた。爆弾を抱えながらの練習は難しいと感じたため、アメリカのボルダーで高地トレーニングを行うことに。渡米前にたみさんと結婚したが、いきなりの別居生活だった。
1年ほど充実した練習をこなし、満を持して2度目の東亜マラソン。韓国代表の最終選考レースだ。堅調な走りで34km地点までは先頭集団に食らいついたが、スパートで離されて6位。2時間11分48秒の自己新記録だったものの、オリンピックの夢は破れた。