銀メダルをきっかけに引退
アメリカに戻って4年後はどうするか悩んでいたところに小出監督から電話がかかってきた。「有森の面倒を見てくれないか」。女子マラソンの日本代表に選ばれていた有森裕子さんだ。「不明瞭な代表選考の騒動はまったく知らなかったけど、有森さんはリクルートの後輩だし、コーチ料をいただけることもありがたいと思って引き受けました」
コーチとしての経験はないが、ボルダー合宿のノウハウを活用した。有森さんに当時の様子を聞くと、
「とにかく金さんは一生懸命でした。疲れていても食事を作ってくれて、試行錯誤しながら二人三脚で練習しました。あと、奥さんは同じ会社で理解はあったと思いますが、新婚早々で離れていたので大変でしたね」
とエピソードを語ってくれた。
ご存じのとおり、有森さんはバルセロナ五輪で銀メダルを獲得。現地で応援した金さんは「感動しましたよ。他の人の成功が自分の喜びに思えたのは初めてでした」と感慨に浸った。
そこへ再び小出監督から「女子のコーチをやらないか」と提案される。引退を決断。28歳だった。
「もったいないって気持ちは多少ありましたけど。最後のレースで自己記録を出した満足感もありつつ、強くなった韓国選手を見て4年後は無理かなと思いましたね。それとサポートした有森さんがメダルを取って、自分が思い描いていたことを代わりにやってくれたみたいな達成感はありました」
小出監督率いるリクルートで、金さんはトラック競技のコーチを担当。五輪選手を輩出する強豪チームとなるが、それも長くは続かなかった。小出監督が選手とのトラブルを巡って謹慎させられ、金さんが監督に就任。その後、小出さんは会社側と決別する形で積水化学へ。
「高橋尚子さんをはじめ主力選手が小出さんを追って一気に辞めたんです。移籍するには当時“円満退社証明”が必要だったんですが、選手に罪はないと思ってハンコを押しました。甘いことするなって会社には怒られましたけど」
ただ、メンバー移籍の影響は大きく、チームの成績は低迷。ついにリクルートは'01年9月での休部を決める。しかし、転んでもただでは起きないのが金さん。
「休部発表の記者会見で、会社には内緒で新しくクラブチームを創設するという決意表明をしたんです」
新たな挑戦が始まった。
1年ほどかけてさまざまな勉強をして、'02年にNPO法人「ニッポンランナーズ」を発足する。市民ランナーを対象にした練習会は、最初は5人ぐらいしか来なかった。だが実業団の元監督が直接指導してくれる、理論に基づいたことを教えてもらえると口コミで広がっていく。
「仕事を持ちながら練習する市民ランナーは、まじめでひたむきで教えがいがあります。勝ち負けじゃない世界で、一人ひとりに喜びがある。すごく面白いですよ」
メディアに取り上げられることもあり、ランニングブームの波にも乗って徐々に大きくなっていった。