がん手術からフルマラソン完走
身体の異変はあったが、仕事が忙しくサインを見逃していた。'06年の夏、42歳のときだ。長野でハーフマラソンに参加した帰り、新幹線のトイレで大量下血。さすがに心配になって病院で内視鏡検査を受けた。内視鏡カメラのモニター画面に何やらグロテスクなものが映っている。それは病院の待合室にあった大腸がんのポスターにそっくりだった。
「先生に『これ、がんに似てますね』って言ったんです、冗談半分で。そうしたら『金さん、これがんですよ』ってはっきり言われました。ビックリですよね。内視鏡がお尻に入ったままがん告知(笑)。しかも相当進んでいるから、一刻も早く手術しましょうって」
混乱を必死に抑え、数日後に行われた手術は無事に成功。がんの大きさは約3cm、進行具合はステージ3だった。「かなり進行していましたが、病理検査で、たまっていた腹水やほかの臓器にがん細胞が見つからなかったのは奇跡でした」。
翌年、金さんはオーストラリアのゴールドコーストマラソンへの出場を決意する。手術からたった11か月。腹部の痛みは続き、体力も回復途中。なぜ、走るのか。
「がん患者の誰もが経験すると思いますが、“死の恐怖”に悩まされていました。それを乗り越えるために完走したい。もし走り切れたら再びマラソンランナーとして胸を張れると思ったんです」
仕事などで少しずつ走れるようになったとはいえ、42・195kmはハードルの高いものだった。
「確実に練習不足でしたから、案の定途中で足が痛くなり30kmからは全部歩きました。5時間42分は自己ワースト記録だけど、制限の6時間以内にフィニッシュできた。これで復活できたって感動がありました」
当時、周囲にはがんを公表していなかった。カミングアウトのきっかけにしたのが、'09年のつくばマラソンだった。
「このころ『走る意味 命を救うランニング』(講談社現代新書)を執筆していて、締めくくりをサブスリー(フルマラソンを3時間未満で走ること)達成にしようと。がんでもサブスリーを出したら、この人は大丈夫って印象になるでしょ」
そして2時間56分10秒でゴール。見事な有言実行だ。
独り身になっていた金さんは'13年に幸枝さんと再婚。ランニングがつないだ縁だった。
「僕は料理が好きで、魚をさばくところからいろいろ作ってね。幸枝ともよく一緒に食べましたよ」
金さんの自宅を訪れたことがあるという有森さんは「お店のような寿司セットを用意して、お寿司を握ってくれました。かなり凝り性ですね」と普段の様子を教えてくれた。
幸せな日常があった。しかし、幸枝さんを病魔が襲う。卵巣がんだった。長い治療のかいも虚しく'23年6月に永眠。大切な人を失うのは何度目だろう。
それでも金さんは、平坦ではない道だとしても走り続ける。
「『50代でサブスリー、還暦でもサブスリー』が目標。今度の2月で60歳になるんですが、さすがに年には抗えないかも」と笑う。
年が改まり'24年1月2、3日に行われる第100回箱根駅伝。
「創設者の金栗四三さんが始めてもう100年たったのかと感慨深いですね」
金さんは例年どおりNHKラジオで解説を務める。
「実は、卒業後にOBとしてゲスト出演してから30年以上も携わっているんですよ」
ほかにも五輪や世界陸上など数多く担当する金さんの解説は、説明が丁寧でわかりやすいと定評がある。
「一番は選手目線。ネガティブなことは言わず、選手をリスペクトできるような解説を心がけています」
映像のないラジオならではの難しさもある。
「言葉だけで想像できるよう、頭を働かせてしゃべっています。例えば、色ですね。『富士山がきれい』なら『青い空に雪化粧した富士山』みたいに具体的に言うんですよ」
と極意を教えてくれた。
節目の大会でどんなドラマが生まれるか、金さんのラジオ解説と共に楽しみたい。
<取材・文/荒井早苗>