「クドい」「気持ち悪い」と言われていた若手時代から、今は「憧れの大人」の存在になったタレント・関根勤(70)。古希を迎えた今も現役として面白さを提供してくれる、その肩肘張らない魅力を過去を振り返りながら迫った─。
今年、芸能生活50周年を迎えるお笑いタレントの関根勤(70)。最近はテレビのみならず、YouTubeやポッドキャストにもチャレンジし、コメディアンとして円熟味を増している。
芸能界デビューのきっかけは、日本大学在学中の21歳のとき、バラエティー番組『ぎんざNOW!』(TBS系)の『しろうとコメディアン道場』で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンとなったことだった。
関根勤が語るお笑いの道
「お笑いが大好きだったけどプロの芸人になるつもりはまったくなかった。『しろうとコメディアン道場』に出たのも青春の思い出づくりのため。親父が消防士だったので自分も同じ道に進もうと思っていたんです」と関根は話す。
ものまねを始めたのは中学時代。高校に入ると友達と一緒にあちこちの文化祭で披露したりしていた。大学では“目黒五人衆”というお笑いグループをつくって活動していたが、あくまでもアマチュアの活動だった。
しかし、『ぎんざNOW!』を見た、現在も所属する芸能事務所・浅井企画の当時の社長から「君の才能は保証する」と熱心にスカウトされる。萩本欽一と坂上二郎からなる伝説のコンビ「コント55号」を育てた社長から太鼓判を押されたら、断れるわけがない。そして、「ラビット関根」という芸名で活動を始めることになった。
「僕は4人きょうだいの末っ子で、親から反対されることもなく、実家で暮らしながら芸能活動をしていました。家に帰ればごはんもあるし、生活費を払う必要もない。だから地方から出てきてバイトしながら頑張るといったハングリーさがゼロでした。師匠についたこともなく、修業もしていない僕が突然、21歳でデビューしたわけですから、そんな簡単にうまくいくはずはないですよね」
最初はスタッフや共演者に萎縮し、なかなか個性を発揮できなかったが、千葉真一や長嶋茂雄、ジャイアント馬場など、独自のものまねで次第に注目されるようになる。
その後、ラビット関根がお茶の間に知られるようになったのは『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)への出演だ。「バカバカしいと思うなよ。やってる本人、大まじめ」と歌いながら「カマキリ拳法」をアドリブで披露したのが視聴者にウケて、人気者になった。
「後から知ったのですが、女性の視聴者からはかなり嫌われていて、周りのタレントさんからも『番組で何をしでかすかわからない危ない人』だと思われていたみたいです。今でいうと江頭2:50くんのイメージです。当時共演したアイドルのいとうまい子さんから『関根さんって、実際は普通の人なんですね』と驚かれましたから。
でも僕は台本どおりにやっているだけだったんですよ。今みたいにSNSがあったら『気持ち悪いやつを出すな』と大クレームでスポンサーが怒り、レギュラーを外されていたんじゃないかな」
「カマキリ拳法」で一躍有名になったものの、「アクが強い人物」だと思われ、仕事のオファーはまったく来なかったという。それは事務所の後輩だった小堺一機も同じで、先輩である萩本欽一から「まずは潜ってきなさい」とアドバイスをもらう。
「コント55号が人気者になったのはお客様の前で80点以上の笑いがとれるようになるまで修業をしてきたから。おまえたちもテレビに出る前に修業を積みなさいと言われました。それで小堺くんと2人で下北沢のライブハウスでコントを行うようになりました」
そのコントを見るためのお客さんが徐々に入るようになり、確実に笑いがとれるようになっていった2人。1年後には『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)で、小堺とともに「クロコとグレコ」としてミニコントをするコーナーを持たせてもらえることになった。さらに萩本のアドバイスで芸名をラビット関根から本名の関根勤に改め、そこから順調な芸能生活が続いていく。
「欽ちゃんファミリーに入れてもらって、毒のあるラビット関根が消えて、素の関根勤として世間のイメージもよくなりました。枠が替わると見る目が替わるのは、まさに欽ちゃんブランドのおかげです。名前を変えただけで中身はまったく変わっていないのに、『気持ち悪い』から『かわいい』とイメージチェンジでき、僕の芸も受け入れてもらえるようになったんです。さらに30歳を過ぎて結婚もして、子どももできて、『変な人じゃなく、普通の人だったんだ』と視聴者も僕のことを安心して見られるようになったんだと思います」