東京で初めての独演会

 幸運にも山田は、稲尾さんと5年間、朝日放送『おはよう朝日です』のスポーツコーナーで共演していた。中学まで野球部に所属していた山田は、稲尾さんと食事をする際などに、野球界のことをあれこれと聞き、ネタを蓄積していた。ただし稲尾さんに釘を刺されていた。「俺のことは、俺が死ぬまでは話すなよ」

 '07年11月、稲尾さんは亡くなった。山田が『かたり』デビュー作となる『稲尾和久物語』を作ったのは'08年秋から暮れにかけて。『かたり』の晴れ舞台のために、高田の命を受け、会場のブッキングに奔走したのは、若き春風亭昇太(64)だった。

 '09年3月、東京・下北沢の劇場で開催された2days。

「『稲尾和久物語』と『江夏の21球』をやりました。2時間。大ウケでした」

 東京での初めての独演会。1人で2時間の長尺。

「終わったら楽屋に高田先生が来て『山田、おまえ、これで食っていける。俺が保証する。前だけ向いて行け。誰かが何か言ってきても、このままでいい。俺がハンコを押したから』。下北沢で泣きに泣きましたね」

 当時、その会場にいた人物がいる。元TBS局員で現在は宮崎放送の会長を務める牧巌氏(64)だ。

 芸の第一印象を「普通の人の芸じゃない」と受け止めた。

「頭の中を開けて、覗いてみたくなりますね、どうやって作っているのか。山田さんの『かたり』は、絵が見える。映像が浮かんでくるんです。落語ともまた違う芸で、もっともっと広まってほしい」とし、山田の芸には「性善説の笑いが横たわっている」と指摘する。

「お笑いはギャップの量で生まれるところがあって、そのギャップを悪口で作る芸が増えている。山田さんは悪口を言わずにギャップを作れるタイプ。ホッとしますよね」

 昨年11月から隔月開催で山田は、東京・四谷の劇場『ブルースクエア四谷』で『かたり』の勉強会を始めた。仕掛け人は牧氏だ。

「言葉で山田さんの芸をみなさんに説明しても、伝わりにくい。映像でもダメ。生で見ないとダメ。だからと思って、お手伝いしています。音もいい会場なので、山田さんに歌わせたかった。『かたり』と歌の会として根付かせたいですね」と、山田の芸の広がりに一肌脱ぐ。