結婚のため大学をやめるもまさかの破局
「せんだは絶対に世に出ると思っていましたよ」
と、菅原は言う。兄の孝とともに菅原が『白いブランコ』でデビューしたのは1969(昭和44)年。実は、せんだはアマチュア時代のビリーバンバンのメンバーだった。
「せんだはリズム感がいいから、パーカッションもすごくうまくてね。歌は下手だけれども(笑)、雰囲気があるから加山雄三の曲なんか歌うとステージでも結構ウケたんです」(菅原)
ビリーバンバンの音楽性はすでにアマチュア時代から注目され、コンサートをやれば超満員になった。メジャーデビューは多くのファンが待ち望んでいた道。しかし、デビュー前にレコード会社の意向で、せんだはメンバーから外れたと菅原はいう。
「兄弟で売り出したほうが面白いし、2人のほうがギャラも少なくて済むという事情もあったようで(笑)、それでせんだはいらなくなっちゃったんです」
レコード会社の思惑どおり、兄弟デュオが歌う『白いブランコ』は大ヒット。ビリーバンバンは一躍フォーク界の寵児となった。一方、メンバーから外されたせんだは、ビリーバンバンをサポートする側に回った。
「僕はお金はいらないからと言って、運転手や楽器運びをやっていたんですよ。その当時は20歳そこそこ。芸能界でやっていく自信はなかったし、そもそも自分の人生がどうなるのか、まったく想像もつかなかった」
せんだは'47(昭和22)年生まれ。いわゆる団塊の世代である。本人いわく、「幼いころは美少年」だった。小学3年生で児童劇団からスカウトされ、子ども服のモデルとして引っ張りだこになった。
「婦人雑誌にたくさん出ましたよ。『主婦と生活』にも載ったんじゃないかな? おふくろが雑誌を買ってきては、近所の奥さんたちに“これ、ウチの光雄です!”って見せて回っていたなあ」
外見だけでなく、目立ちたがり屋で明るい性格は『劇団民藝』の目にとまり、舞台『人形の家』の公演で主役・ノラの長男役も演じた。が、役者になるつもりはなかった。大人になったらどんな仕事に就くか? ジャーナリストにも憧れたが、勉強は嫌い。高校時代はバンド活動に明け暮れた。そんな時期に出会ったのが菅原だった。
大学生になったせんだと菅原、その歩みは明暗を分けた。青山学院大学に進んだ菅原は音楽家の浜口庫之助門下となり、ビリーバンバンとしてプロ歌手デビュー。一方、駒澤大学に進んだせんだは、
「3つ年上の女性と恋愛関係になりましてね。収入がなければ結婚できないと思って、大学を2年でやめて調理師学校に通い始めたら、彼女が他の男と結婚しちゃって……。奈落の底に突き落とされた気分でしたね。何の目標も見いだせずに、進にくっついていただけだった」
捨てる神あれば、拾う神あり。菅原について浜口教室に行くと、そこに居合わせたコメディアンの世志凡太に気に入られた。フィンガー5のプロデューサーでもある世志の付き人となったせんだは、芸能界の入り口に立った。
そして、ステージでの司会を任される機会にも恵まれる。そのときの素人離れした話術を認めたニッポン放送のプロデューサーが、DJの仕事とともに“せんだみつお”の芸名を与えてくれた。
「おまえは千のうち三つしか当たらないから“せんみつ”だって」
ところが、せんだは一発目から当たりを引き寄せた。和田アキ子と共演した『ワゴンでデート』のDJぶりが導火線となり、'72(昭和47)年に素人参加型番組の先駆けとなる『ぎんざNOW!』(TBS系)の司会者に抜擢されると、せんだみつお人気に一気に火がついた。
「僕の黄金期の始まりです。売れる前の関根(勤)君や小堺(一機)君もこの番組で育ったんですよ。キャロルも出演していたなあ。楽屋でメンバーたちがポマードを塗っているときに、矢沢永吉さんをつかまえて、“おまえがリーダーか? 臭いんだよ、便所で塗ってこい!”って怒鳴ったこともあった。
後年、矢沢さんがビッグになって、飛行機でバッタリ会ったら、“ハーイ、せんちゃん、ユー、元気?”って気さくに声をかけてくれたんで、“はい、その節はお世話になりました”って平身低頭で(笑)。芸能界は下剋上です、ナハ!」