被災地域の復興や地道に頑張る地方のために
ぱっと咲いてぱっと散る桜に象徴されるように、日本人は潔さ、儚さを尊ぶ。枯れても散らない花の粘り強さを尊び国花にする国もあり、それは文化の違い、民族性の違いであって、上下や優劣の比較にはならない。
「洋館も素敵だけど、日本間がいいですね、やっぱり。今回も違い棚に、震災から頑張ってらっしゃる富山県の鋳物の器を使いました」
10年くらい昔に見せていただき、今はもう手放してしまった渋谷の洋館には、清められた和室もあり、そこに御両親の仏壇があったのを思い出す。
「復興を目指しましょうという気持ちで、桜をいけました。ダリアは山形県のもの。ダリアも牡丹も3日くらいで寿命になるのでいけ替えます。子守をするのが大変、生命の守りです」
重要文化財とのコラボの向こう、隣には、被災地域の復興や地道に頑張る地方の繁栄を願う気持ちが常にあり、カーリーの手がつむぐのは花だけではない。
「バラは、けっこう長持ちします。ジャーマンアイリスなんかも、花びらが肉厚で強い。でも日本の花、和花は、花びらが薄くて儚い。なので、子どものころから、牡丹、菖蒲、朝顔、桜、菊といった和花が好きだった」
芸術家とて人間。お金も大事
儚さに惹かれ、美を追求し続けながらも、カーリーの生き方はかなりいろんな意味でたくましいのは、美をつむぎ続ける人には不可欠な要素である。
同じく美しいものが大好きで、確固たる美学に生きた御両親はお金儲けや貯蓄には関心がなく、小さな借家でいいという生き方をされていた。
そんな親御さんと違い、カーリーは商売熱心でもある。自分のブランドの着物の見立て会でも精力的に各地を回り、オリジナルの製品の開発にも取り組んでいる。
カーリーの花鋏、花器、ランチョンマットやバッグ、買えばすべてに愛想よくサインしてくれ、笑顔で記念写真も撮ってくれる。ついつい、買い込んでしまう。
カーリー、とってもうれしそう。いや、本当に自分の心を込めた作品などを売ることも、それで人を喜ばせることも大好きなのだ。
これは大事なことである。芸術家とて人間。霞を食って生きられるものではないし、なんといっても儲ければ大きな家も手に入り、華やかに装って美食もできる。そうなるとさらにいろいろな美に触れられるし、美を求める道も多岐にわたることにつながるのだ。無料では見られない美、ただでは学べない美というのも、たくさんあるのだ。
貧乏しても好きなお花だけいけていられたらいいの、という姿勢の人もそれはそれで立派かもしれないが、門下生はあまり集まらず、後進が育たない。さらにいえば、いけられる花の種類も限られてくる。
かっこいい、憧れる、あんなふうになりたい、あんな暮らしをしたい、といった俗な欲望も持たせなければ、華道に限らずすべての業界は萎んで枯れるだけではないか。
美輪明宏さんも、あの華やかな容姿と暮らしぶりも憧れの対象となった。そして同類だといち早く見抜いたカーリーには、秀吉の絢爛豪華さと千利休の侘び寂びがある、とおっしゃったそうだ。
簡素な茶室の一輪の花、金ぴかの茶室の高価な茶器、カーリーはどちらも愛し、どちらも手に入れ、どちらも作品として人を感嘆させる。