「美味しくて、涙出ちゃった」
僕たちは、もう一度、ホテルニューグランドに戻る。一階の『ザ・カフェ』で、約束通りシーフードドリアを注文した。昼だけど、と断りを入れてから、白ワインも注文する。
程なくして現れたシーフードドリアは、グラグラと熱を放出しながら、立派なホタテや海老(えび)がゴロゴロ入った豪勢な一品。熱い器に注意しながら、スプーンで一口すくってみる。「ホフホフ」と漫画のようなリアクションをとってしまう。
その瞬間、白ワインを一口、口に含んでみる。シーフードドリアと少し酸味のきいた白ワインが口の中でゆっくりと溶け合っていく。そして白ワインの味が増した瞬間に、ゴクリと喉を通過させる。するとなんとも言えない多幸感が、口いっぱいに広がる。
彼女もすぐにその食べ方を真似する。ゴクリと喉を通過させたあと、「美味しい」と言った彼女が、「わたしさ、やっぱり離婚するのやめようと思うんだ」と行き詰まったすべての話をしはじめる。
話が終わる頃、彼女は「美味しくて、涙出ちゃった」と涙をそっと拭きながらつぶやいた。
それから彼女がカナダから帰ってきたのかどうか、僕は知る由もない。東横線は多摩川の陸橋を越えて、一目散に横浜を目指している。座席はほとんど空いていて、陽射(ひざ)しは優しい。
季節は秋なのに、春のような暖かさだった。少しだけ喉が渇いていた。僕はまたうつらうつらとしてしまう。眠ってしまいそうだ。口がシーフードドリアを欲している。白ワインも必ず付けようと心に決めていた。
あのときの、名前も思い出せない彼女は、何をしているだろう。彼女もまた、僕の名前は忘れてしまったかもしれないが、あのシーフードドリアを一口含んだ瞬間を、ふと思い出したことはあるだろうか。
燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。
『BEFORE DAWN』J-WAVE(81.3FM)
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