強き母親の背中を見て育った蓮舫氏は、青山学院大学在学中の1987年、19歳のときに『クラリオンガール』として芸能界入りを果たす。

ハイレグ水着でグラビアの撮影をしたり、写真集を出版したりしていますが、もともとは女優を目指していたそうです。山口百恵さんが出演していた“赤い”ドラマシリーズが大好きで、よく見ていたとか。デビュー当時からフェアレディZに乗っていたかと思ったら、“真っ赤なポルシェが欲しい”と言い、気がつくと乗り換えていたのには驚きましたよ」(芸能ライター、以下同)

「毎朝子どもの姿が見えなくなるまで…」

 自らの欲求に従い、欲しいものは手に入れてきた。それは仕事も同じ。24歳でワイドショーの司会に抜擢され、報道番組のキャスターとしても活躍する。

「勝気な性格は当時からで、スタッフとぶつかることもありました。報道に携わる中で、蓮舫さんはドキュメンタリーを撮りたいという思いを強めていったようです」

 1993年には、仕事仲間だった番組ディレクターで現・岩手県釜石市議の村田信之氏と出会い、結婚。1997年に双子を出産する。

「1人でも大変なのに、2人同時なんてとても……。さすがに仕事をお休みするかと思いきや、夫や母親の助けを借りて育児と仕事を両立します。取材のため、1~2週間ほど家を空けることもあったそう」

 当時は女性の社会進出が叫ばれ始めていたとはいえ、家庭を守るのは女性の役割という考え方が根強かった時代。蓮舫氏は、そうした古い意識を飛び越え、自らの理想を求める道を選び続けた。

 2004年、参議院議員として初当選し、政界入りを果たしたのだ。当時の蓮舫氏の姿を、前出の近隣住民の女性が記憶していた。

毎朝、学校へ向かうお子さんたちの姿が見えなくなるまで、蓮舫さんがベランダから見送っていたのを覚えています。家事や育児は、かなりの部分でご主人に頼っていたようですが……。もちろん忙しい合間を縫って、なるべくお子さんとの関わりを持つように努力されていましたよ」

 2009年、蓮舫氏が当時所属していた民主党が政権与党になると、行政刷新担当大臣や首相補佐官を歴任。政治家として存在感を示していくが、その手腕はどうか。前出の青山氏はこう語る。