家族というものが「原風景にない」幼少期
1966年、東京都墨田区で町工場を営む父と母、3歳上の姉の4人家族の長男として生まれた歌川さん。今では東京スカイツリーがそびえ立つ観光スポットとなったが、当時はコンビニもファミレスもない、木造の家や小さな町工場が立ち並ぶだけの下町だった。住んでいたのは、工場の2階。20人ほどいた工場の従業員たちに可愛がられて育ったという。だからだろうか、いちばん古い記憶として浮かぶ情景も工場の人たちとの時間。
「3歳か4歳くらいかな。2階の家に工場の人たちが上がってきて、ぐずって泣いている僕を抱っこしてみんなであやしてくれている。人生の最初の記憶は、そんな感じですね」(歌川さん)
だが、家族での楽しかった記憶はほとんどない。子どもの世話をまったくしない父と、町でも評判のカリスマ美人で、女優の丘みつ子に似ているといわれていた母。親戚と遊びに行ったり、母と(今振り返れば)不倫相手が遊園地に連れて行ってくれたなどの記憶はあるが、「家族そろってというものが原風景にない」という。
虐待の最初の記憶は、火のついたタバコを手の甲に押しつけられたこと。今でも左手の甲に痕が残っている。
「5歳か6歳だったと思います。母の前に正座させられて、手を出しなさいと言われて、そこにジュッとタバコをつけられて。そのあと、1階の工場の柱に縛りつけられたんです。木のパレットがたくさん積んであったので木の匂いがすごくしたこととか、工場内の暗い感じを覚えてますね」
これだけでも非常に衝撃的だが、歌川さんは「小さかったころは、まだ手加減があったのかな」と、サラリと語る。
「僕が11歳くらいになると身長が170cmほどになっていたので、もう手加減がいっさいなかった。刺身包丁で切りつけられそうになったことがあって、右腕でかばったので、その傷痕も残ってます。さすがにね、“殺そうとしたんだな”という感じはありました」
さらに、小学校ではひどいいじめも受けた。太っていた歌川少年に、クラスメートたちは「デブ」「ブタ」などの言葉を浴びせ、殴る蹴るなどの暴力も振るったのだ。担任も「食べてばかりいるからでしょ」と言って助けることもせず、虐待の傷も見て見ぬふり。いじめ防止対策推進法や児童虐待防止法ができるのは、歌川さんが大人になってからのことだった。