壮絶だった自宅介護と一人暮らしの理由

 それまで暮らしていた目黒の家を手放して一人暮らしを始めたのは、壮絶だった自宅介護と、その後のギャップに耐えられなかったから。

「“(母が亡くなって)ご臨終です”と言われたそのときから家に誰も来なくなって。それまでは朝9時に“ピンポーン”と玄関のベルが鳴ると、週で50人以上の介護関係者が家に出入りしていたんです。それが、臨終の瞬間から誰も来ない。コロナ禍で仕事の関係者とは外で会うようにしていたから、本当に、誰も来なくなっちゃった。広い家がしーんとして、精神的にまいってしまった。それで引っ越しを考え始めたの」

 自宅介護で肉親を見送った人が口にする、介護中の戦争のような毎日と、その後の身にしみるような静けさ。

 そのギャップに戸惑うのは、“雲の上の大スター”も決して例外ではなかった─。

 始まりは2016年5月。

「母は中国生まれだったので中華料理が大好き。それで、母と親しい人たちだけで、少し豪華な中華レストランで誕生パーティーをしたんです」

 志奈枝さんは好奇心旺盛な人で、人の話を聞くのが大好き。それなのに、そのときはどうしたことか、目の前の料理をガツガツと食べるばかりで、人の話を一切聞こうともしない。

「それでたしなめようとしたら、母のスカートが濡れていた。失禁していたんです」

 そのあと自分がどう振る舞い、集まってくれた人たちにどう言い繕って帰宅したのか、松島は覚えていない。

「数日たって気を取り直してからも、“母をどうしてあげよう”とか“かわいそうに”とかは一切頭から飛んでしまっていた。“どうやってこの状態から逃げようか?”。そればかり考えていました」

 不安に震える娘をよそに、以降は志奈枝さんの症状はつるべ落としの状態だった。