沖縄民謡と「くるち」を次世代に残す取り組みを
宮沢は沖縄のことも忘れていなかった。
'07年、前出の平田さんのもとに知り合いから「宮沢さんが沖縄にレコーディングに来ていて、平田君に会いたいと言っている」と連絡が入った。
「彼が僕のことを覚えてるの?と思いながらスタジオに行くと『やぁ、平田君、頑張ってるね』って。昔と全然印象が違う(笑)。当時、僕は古典様式の『肝高の阿麻和利』という舞台をアレンジして、沖縄の中高生たちと一緒に作っていました。彼はその取り組みに興味を持っていて、舞台の稽古場まで来てくれた。黙ってずっと稽古を見て、フィナーレを迎えると立ち上がって『すごいね、感動しちゃった。せっかくだから』とギターを弾いて『島唄』を客席から歌ってくれました。子どもたちはもちろん『島唄』を知ってますから、大喜びですよ。そのとき初めて『宮沢さんに出会えたな』という感じがしました」(平田さん)
平田さんの「古いものを大事にしながら、新しいものを生み出していく」取り組みは、宮沢がやりたいと思いながらもできずにいたことだった。そして'11年、東日本大震災が発生。宮沢は「やりたいことは今やらなければ、一瞬でできなくなる可能性がある」と以前から心の中で温めていた沖縄民謡を次世代へ残すための活動を始める。
自ら歌い手のもとを訪ね歩き、4年かけて250曲あまりを私費で録音した。パッケージ化の費用は平田さんの協力で『唄方プロジェクト』を立ち上げ、寄付金で17枚組のCDボックスが完成。沖縄県内の学校や図書館、県外の県人会などに寄贈した。
この活動と並行して宮沢は'12年、『くるちの杜100年プロジェクト』をスタートさせている。『島唄』のヒットで三線の売り上げが伸び、それまで棹に使っていた沖縄産の黒木(くるち)が枯渇、今は輸入に頼っていると飲みの席の笑い話として職人から聞かされたのだ。しかし、宮沢は笑えなかった。
当時、知事の要請を受けて沖縄県の文化観光スポーツ部長を務めていた平田さんのところに、宮沢から電話が入った。
「今、那覇にいるんだけど、お昼休みに行ってもいいかな。10分だけ時間が欲しい」
平田さんが応じると「これはお願い事ではなくて平田君に話したいだけだから。くるちを県が管理している場所にちょっと植えることはできないだろうか」と先の会合での一件を話し、10分たったのを確認すると「聞いてくれてありがとう」と帰っていった。
宮沢の熱意を感じ取り、平田さんが調べてみると2008年から読谷村で、くるちの植樹をやっていたという情報が見つかる。その取り組みをリスタートさせるのはどうだろう、と宮沢に提案した。
翌月、沖縄にやってきた宮沢と2人で読谷村に向かい、くるちを探してみるとぼうぼうの雑草の中に、頼りなく細々と生えている数本を見つけた。
「それを見て宮沢さん、涙ぐんでるんですよ。『かわいそうすぎる』って」(平田さん)
植樹したくるちが棹になるまで100年かかるそうだが、宮沢は平田さんに言った。
「100年先の三線になった姿を僕らは見ることができないけど、その姿を夢見ることはできる。それはすごく素敵なことじゃないかな」
2人の考えに多くの村民が賛同し、とんとん拍子に話が進んだ。植樹活動は現在も続いており、毎週第三日曜日には周辺の草刈りが行われ、宮沢も頻繁に参加している。