2年間の活動休止で見つめ直した自らの居場所

武田神社のコンサートでは加藤登紀子の『難破船』のカバーも披露。「高校生のときに聴いて、愛って厄介で難しいものなんだろうなと……」
武田神社のコンサートでは加藤登紀子の『難破船』のカバーも披露。「高校生のときに聴いて、愛って厄介で難しいものなんだろうなと……」
【写真】原宿の歩行者天国でライブ活動をしていたころのTHEBOOM

 どんな話題のときも、身振り手振りを交えながら穏やかに、丁寧に話す。

「よく言われるんですよ。『宮沢、変わったな』『昔はとげとげしくて目も合わせないし、近寄りがたくて怖かった。今はなんでそんなに丸いの?』って。自分としては、昔も今も一緒なんですけど。やっぱり自信がなかったんでしょうね。だからいつも戦闘モードで、強く見せようとしていたのかも」

 意外にも、'16年に歌手活動を休止するまで「ずっと自信がないままだった」と明かす。「自信がないからいろんなところに飛び込んでいったり、誰もやっていないような曲を作ってみようと必死になっていたんだと思います」

 バンドを解散し、所属事務所を辞め歌手活動もやめてから、ヘルニアの発作はまったく起こらなくなった。歌うときの姿勢や不摂生などの職業病だけではない、精神的プレッシャーからの解放が大きかったようだ。ただ、「THE BOOMのボーカル」という肩書がなくなったことで、自分には何もないと気づいた。ずっと音楽の道を走ってきて、大した社会経験もしていない。前向きな日もあれば、他人の言葉がすべて正しく、自分が疑わしく思える日もあった。

「そんなとき、お世話になった人から仙台の東日本大震災チャリティーライブに誘われたんです。何曲か歌いましたが、声は出ないし、出来はひどいものでした。俺もこんなになっちゃったかと思ったんですが、歌い終わると拍手がすごい。ああ、素敵な場所にいたんだなと気づきました」

 その後、長崎県の対馬から夏祭りに来てほしいと声がかかり、村の子どもやお年寄りたちから拍手をもらううちに、歌いたいという気持ちが少しずつ蘇ってきた。音楽にのめり込み、自分を追い込みすぎて疲弊してしまったが、そこから引き上げてくれたのも音楽だった。'18年には、本格的に歌手活動を再開。全国区の大きな仕事から、島の村祭り、国内のブラジル・フェスティバルまで「面白そう」と思ったものは垣根なく、縦横無尽に参加している。

 2年間、それまでの人生の年表から離れたことで、宮沢が手に入れた大きなもののひとつが「自信」だった。

「年表から離れた時期、自分の仕事を冷静に見てみると、結構、面白いことやってきたな、まんざらでもないなと思えたんです。今まで経験したことは全部2時間のステージに反映できるし、他の人には作れないものになる。それは誇りだなと。事務所がない、マネージャーがいないというのも、今の自分には合っていると思います。誰にも甘えられないし細かいこともやらなくちゃいけないけれど、リスクもないし、誰にも迷惑かけずにやりたいことができる。余裕も自信もあるから楽しいし、何があってもへっちゃらです」

 ステージ上で見せる表情や言葉も、観客を包み込むように優しい。

「コンサートをしていると、車イスの人がいたり、泣いている人がいたり、いろんな思いでここに来てくれているんだなと感じます。何かひと言でも心に残して帰ってくれたらと、言葉を用意して伝えるようにしています」

 宮沢は甲府市の子どもたちにも、言葉を伝えることに心を砕いている。

「甲府出身の著名人が子どもたちに夢を聞いてアドバイスするプロジェクトがあるのですが、今の世の中はあまりにも問題が多く、何が善で何が悪なのかもわからない。だからこそ子どもたちには『2つ選択肢があって迷ったときは美しいほうを選ぼう』と伝えています。勝ち組になれなくても、絶対に敗北はないので」

 それは、宮沢の生きざまそのもののようだ。

<取材・文/原田早知>

はらだ・さち フリーライター。北海道生まれ。『JUNON』『TVガイド』をメインに雑誌、ファンクラブ会報誌などで多数のタレントのインタビュー記事を執筆。東日本大震災をきっかけに、地元のカルチャーに関わるべく札幌へ移住。専門学校講師として文筆業を志す学生の指導を行っている。