大ピンチを救った大先輩の言葉

 その小堺に、ピンの仕事が来る。'84年、『ライオンのいただきます』(フジテレビ系)のMCである。

「ドッキリだと思ったんですよ。だってタモリさんの『笑っていいとも!』に続いて流れる生放送ですから、司会の経験もない28歳の若造が起用されるわけないだろうって。だけど、チャンスっていうのは、チャンスの顔をして来ないんですよね」

 初めてのメイン。毎回、スタジオに「おばさまたち」を招き、トークを繰り広げる。小堺が司会に抜擢された理由は、「おばさまたちから可愛がられそうなキャラクター」ということだった。しかし、トークはさっぱり盛り上がらず、視聴率も低迷。

「新聞で酷評されました、“小堺が空回りするのを見ていられない、消えていただきます”って。責任はすべて自分にかかってくる。矢面に立つって、こういうことかと思いました」

 落ち込む小堺。そこに連絡をしてきたのは盟友の関根だった。

「『カックラキン大放送!!』で一緒だった堺正章さんから、“小堺くんに一人でしゃべってんじゃないよって言っといて”って、言いつかったんですよ。すごいよね、やっぱりレジェンドにはわかるんだね」

 小堺が空回りしている原因、そして何をすべきかを、堺はひと言で伝えたのである。

「まるでダムが決壊するように、勝さんや大将や堺さんの言葉が全部つながったんです。僕はトークを盛り上げようと、一生懸命準備をして必死にしゃべっているだけで、ゲストのおばさまたちに気持ちよく話をしてもらえていなかった。

 実は簡単なことで、人の話を聞けばよかったんです。練習しておいたセリフを言うのではなく、相手の話に自然に反応する。そこに気づいたら、ボクサーが頭で考えなくても自然にパンチが出るみたいに、ゲストの話にうまく反応できるようになってきて、番組の視聴率も少しずつ上がっていったんです」

 気の利いたセリフやギャグを用意しておかなくても、普段から見たものや聞いたことが蓄積されていれば、脳が勝手に反応して現場の温度に合ったひと言が口から出てくる。例えば、番組でゲストの話に会場がシーンとなったとき、小堺が放った「東京にもこんな静かな場所があったんですね」というセンス抜群のリアクション。その話芸は恩師の萩本からも認められた。

「僕自身、番組でのトークが面白くなってきているかなと感じられるようになってきたころ、大将の番組に呼んでもらったことがあったんです。で、大将から、“おまえ今、日本でしゃべりいちばんうまいよ”って初めて褒めてもらって、その後に手紙までくれたんですよ。

《昔むかし、あるところに吸盤でいろんなものをくっつけるタコがいました。タコは得意になっていましたが、吸着力がなくなってきました。すると寿司屋のせがれが吸盤をいっぱい持ってきて助けてくれようとしましたが、自分の吸盤じゃないからくっつきませんでした。でも、タコは海に帰って、その寿司屋のせがれのことを自慢しているそうです……》

 そんな物語が書いてあって、もう僕、涙が出ちゃって」

『いただきます』は'91年に『ごきげんよう』にリニューアルされ、放送は'16年まで続いた。32年という放送期間は『笑っていいとも!』と肩を並べる。押しも押されもしない名司会者となった小堺だが、コメディアンとしての才能は'85年から30年以上続いた舞台『小堺クンのおすましでSHOW』で磨き込まれていった。