「果報は寝て待て」でやってきた運命の役柄

 その後、事務所を移ると、役者の夢も捨てがたく、1979年、NHKドラマ『あめりか物語』で俳優デビューする。当初は「石田純」の芸名だった。

 1984年、連続ドラマ『夢追い旅行』(フジテレビ系)で準主役を演じた。クイズ番組『TVプレイバック』(フジテレビ系)のレギュラー解答者としても知名度が上がった。

 ところが役者として代表作に巡り合えていなかった。

「稼ぎでいうと年収1千万円あるかないかぐらいだから、全然ダメではなかったんですけど、当時の所属事務所の社長がやり手で、オレに向かって“もうこの先これ以上望めないから、鳴かず飛ばずでいるよりも、うちのマネージャーになってやっていったら、プロデューサーにはなれるかもしれないわよ”って。“1、2年やったら、私の代わりに社長になって、プロデュースとかやったらいいじゃない”って言ったんです」

 やりかけた役者の道をこれで閉ざしてしまうのは、納得がいかなかった。

「じゃ、1年間だけ、もう1年間だけ真剣にやりますので勝負させてください、って頼み込んだんです。それで売れなかったら、社長の方針どおりにマネージャーになる、と」

 役者として生きた証しが欲しい。

 バブル期、テレビ業界はフジテレビの独走状態だった。なかでもドラマは、“月9”と呼ばれる月曜夜9時からの連続ドラマが高視聴率を上げて、役者ならフジテレビの月9は是が非でも出たい番組になっていた。

 石田もその1人だった。チャンスが巡ってきた。

 浅野温子・浅野ゆう子、後のW浅野と呼ばれるコンビが主演のトレンディードラマが企画された。

 幼稚園時代からの親友という設定の浅野温子と浅野ゆう子。どちらもスタイリッシュで、時代の先端を生きる女性だった。

 ドラマには岩城滉一、本木雅弘といった二枚目もキャスティングされ、バブル時代の熱気をうまくすくい上げていた。浅野温子の恋人役として新鮮なイメージの役者を探していた。

 石田と事務所は期待を抱く。すると、役者は陣内孝則に決まったという。

陣内孝則が降りる

1999年。シャンパングラスを手に持つ姿がここまで様になる男はそうそういない
1999年。シャンパングラスを手に持つ姿がここまで様になる男はそうそういない

 落胆していると、信じられない情報が飛び込んできた。陣内に他局のドラマの主役の話がきたらしかった。

陣内さんが降りたらしいって聞いて、もしかしたら(役が)くるかもしれないってずっと待ってましたが、あー、こない。もう終わりって思った。昼まで寝てたら、ぼこんって電話かかってきて、“『抱きしめたい!』の話って聞いてます?”って。

 スケジュールが空いてないのに、“空いてます”と言う事務所がよくあるので、本当に空いてるかどうか俳優本人から聞いてみたっていうわけ。“オレ、本当に空いてます!”って言ったら、“じゃあやりましょう”と。え!? びっくり」

 まさに果報は寝て待て。

「なんだか個人的に、ちょっと変な言い方になりますけど“人気”って言葉は、人の気と書きますよね。自分の周囲での人気運が上がってきてるなと思ってたら、つまりモテだしたら、大きな舞台でもそういうふうになるんだなっていうのが自分の印象です」

 人間、生きていくなかで人知では思いも及ばない強運が降ってくることがある。

 ゴールデンタイムの高視聴率番組に出ると、どんなことになるのか。

「ドラマが放送されると、街を歩けないぐらいになってました。ただし、僕の出番は4話で終わりだったんです。3話か4話でもう背中たたかれて、お疲れさま。オレ、終わったと思ってたら、当時って『番組に関するご意見をお寄せください』みたいなお知らせが番組最後にあったじゃないですか。そしたら、僕の役名が二宮修治っていうんですけど、“あの人は誰?”“二宮修治、もっと見たいです”とか“もう消えてっちゃうんですか。もっと見たい!”とか、手紙がかなり来たというんです」

 浅野温子への手紙の次、2番目が石田へのものだった。

 時代の波が石田純一を本流に押し上げた。