カッコつけで、村上春樹に憧れてるのに、『風の歌を聴け』しか読んだことがなくて、『SLAM DUNK』と『幽☆遊☆白書』が心底大好きな人だった。ことごとく俗人っぽい彼のことが僕は好きだった。

 奥さんの趣味のジャズを一生懸命好きになろうとしているところも好きだった。小説やエッセイを読むことが大好きな奥さんに愛されたいと、店の一番隅の奥さんがいつも座る場所に、自分が書いた日記を置いている健気(けなげ)な努力も好きだった。 

 いつだったか、彼が「ジャズって、どう聴けばいいんだろうね?」と真顔で聞いてきたときは笑ってしまった。それでも最後の何年か、彼がジャズの演奏に合わせて、カウンターを無意識に指でトントントンと叩いている姿を眺めながら、日々を重ねていくことっていいなあ、と心から思った。 

 彼の淹れる浅煎りのコーヒーは、疲れ切った夕方でも、休みの日の早い朝でも、ふと飲みたくなった。良いことがあったときも、悲しいことがあったときも、急に飲みたくなった。季節によってカップを変えて出してくれたのも嬉しかった。

 その夜、線香をあげた後、奥さんに手渡されて彼の日記を読んだ。それは僕の予想通り、大半がクサくてキモいものだった。

〈5月8日(月) 今日のランチは、僕が彼女にパスタを振る舞った。アルデンテ!〉

 例えば、アルデンテに「!」を付けて締めるところ。村上春樹は結局、三行くらいしか読まなかったんじゃないだろうか? と推測される。

〈9月5日(土) 駅前のラーメン屋ですべての事件は起こった。その出来事が起こる前には、もう僕たちは戻ることはできない〉

 ここから始まるのは、ただ味噌ラーメンを食べたら火傷(やけど)して、その後、風呂場ですっ転んだというだけの、“出来事”だ。改めて言い直したい。彼は村上春樹を二行しか読まなかったんだと思う。

 そんなツッコミどころ満載の彼の日記のある一文に、ふと目が留まった。それはただ、奥さんとふたり、ちょっと遠くの映画館に行って、マクドナルドに寄ったという内容で、最後はこう締めくくられていた。

〈何事もない日だった。来年には忘れてそうなくらい完璧な日だった。それはとても幸せなことだ。また近いうち、みさこと一緒に来れたらいいな〉

 季節がまた変わろうとしている。日々は待ったなしで過ぎていく。こちらは昨日、一つ仕事が片付いて、二つ面倒なことが起きた。そっちの具合はどうだろうか?

 僕はいま、マスターが淹れてくれる浅煎りのコーヒーが無性に飲みたいよ。

燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow
燃え殻さん 取材協力/出窓BayWindow
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燃え殻(もえがら)●1973(昭和48)年、神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetflixで映画化、エッセイ集『すべて忘れてしまうから』はDisney+とテレビ東京でドラマ化され、映像化、舞台化が相次ぐ。著書は小説『これはただの夏』、エッセイ集『それでも日々はつづくから』『ブルー ハワイ』『夢に迷ってタクシーを呼んだ』など多数。

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