彼女は15歳のときに上京して歌手デビューした。歌は売れなかったが、その後、女優、声優の仕事を始めてブレイクし、東京を拠点に活動を続けていた。50歳を前に、母を亡くした。最後の4年間は2人で暮らし、ひとりっ子の戸田は介護にかかりきりだった。
「うちの母は、施設とか人といるのが苦手だったので、“誰がやる?”となったときに私しかいないんですよ。当時のことは、何をどうしていたのか全然覚えていないくらいです。毎日、朝昼晩のご飯のことをやり仕事の合間に10分でも時間ができたら家に帰って様子をみて掃除をして、いま思えばよくやれたなって感じです。事務所のスタッフも協力してくれたし、何よりも自分の愛する母ですから」
しかし、介護はきれいごとだけではすまない。認知症とがんという2つの困難と向き合うのは、簡単ではなかった。
「文句ばっかり言っていましたよ。“なんで自分の親がこうなるの”とかイライラしていたし、頭では理解できても心で理解できなくて悔しくなりました。ため込まないことは大切だけど、もう少し優しくできたんじゃないかなって後悔していますね。神様が認知症かがんのどっちか治してくれるなら、絶対に認知症を治してほしいって思っていた。意思の疎通ができたらもっと母のことを理解できたかもしれない……」
昨年末、戸田はもうひとりの大切な人を失った。26年間声優として演じてきた『それいけ!アンパンマン』(日本テレビ系)の作者であるやなせたかし氏が94歳で亡くなったのだ。
「『アンパンマン』は、“やなせイズム”っていうのがしっかり通っている作品なんです。“愛と勇気”というテーマや自分の身を挺して何かをするということは26年間、何も変わっていません。先生が“人生は喜ばせゴッコ”といっているように、アンパンマンたちの喜びが根底にあるんです。とはいっても、人のために何かするのはけっこう大変で、意外にカッコ悪いことであったりもする。アンパンマンは世界最弱のヒーローだけど、それでも何かのために役立ちたいと思っているんですよ」
押しつけがましくではなく、子どもたちが自然にわかってくれるようなキャラクター作りを心がけていたという。そして、現実の世界でも戸田は“やなせイズム”をしっかりと受け継いだ。ダウン症の子どもたちを支援する団体『ラブジャンクス』を支援するほかに、『キンダー・フィルム・フェスティバル』にも関わっている。
「世界中から子ども向けの映画を集めた映画祭で、ボランティアとしてチェアマンをやっています。ビックリするくらい、よい作品ばかり集まるんですよ。フィルムは海外から借りてきているので、吹き替えをしなければなりません。毎回ライブ(生)で吹き替えをするんです。短いものから100分の作品まであります。そんなことをやっているのは、世界でも日本だけなんですよ。日本の声優さんは技術があるから!」
母親を亡くしたときに、人生の逆算を始めたという。
「母が身をもって“命に限りがある”ということを教えてくれました。“あと何本、女優として舞台に立てるのかな”と思うと、自分のやれることと、やるべきことを、もっと有意義に考えていったほうがいいんじゃないかなって。同世代の女性には、意外に時間はないよって言っておきたい(笑い)」
還暦まであと3年と少しになり、目標が明確になった。
「現状維持です。病気をせずに今やれていることをできれば、自分でも拍手ものだと思っています」