経営権を買い取った日本ハム
後年、東映フライヤーズは身売りし、日拓ホームフライヤーズとなる。その日拓も売却し、経営権を買い取ったのが日本ハムである。
八名は、米大リーグで活躍する大谷翔平選手の先輩でもあるのだ。
「『エスコンフィールド』っていい球場だよな。駒沢野球場とは、まさに雲泥の差(笑)。俺もああいう場所で投げてみたかったよ」
その言葉には、若干の後悔がにじんでいるようだった。八名はプロ野球3年目の1958年、日生球場で登板した際、割れたピッチャープレートに自身のスパイクが食い込み、転倒。腰を骨折してしまう。今のように整備が行き届いた球場であれば、悲劇は訪れなかったかもしれない。選手生命を断たれた八名は、現役引退を余儀なくされた。
ケガをしてから1年後。東映の大川博社長(当時)から「映画のほうに移れ」と通達が届いた。事務作業でもするのだろうと高をくくっていたが、告げられたのは東映・大泉撮影所の俳優としての契約だった。
「六本木にある東映の稽古場へ行くと、真っ黒いタイツをはいた男たちが足を上げて踊りの練習をしていた。男っぽさが売りのプロ野球選手の俺が、『あんな格好で踊れるか!』と思った。後日、『岡山へ帰ります』と告げたよ」
だが、居合わせた所長も、「大川オーナーの要望だ」と譲らない。野球と映画、フィールドは違えども東映は親会社。世話になった恩義もある。加えて、
「岡山に帰るとは言ったものの、本当は帰りたくなかった。姉は神戸へ嫁ぎ、兄は勘当されていたから、岡山に戻れば実家の千歳座を手伝うしか選択肢はない。だから、東京で一旗揚げたいって気持ちが、まだあったんだ」
不承不承、受け入れることにしたが、案の定、思うように演じることはできなかった。通行人を演じても、身長182センチの八名は悪目立ちしてしまい、遠くのほうへ誘導される。画面を見ても、「自分で自分を見つけることができない」ほどの端役を演じる日々。日当は、500円。生活は困窮し、プロ野球時代に購入した時計や車は半年で消えていった。
当時の映画界は、専属監督や俳優の引き抜きを防止する「六社協定」が締結され、東映、東宝、松竹、大映、日活、新東宝の6社が映画製作を競い合う時代だった。年1回行われる専属俳優たちによる「野球まつり」は、さながら代理戦争の様相を呈していた。八名は、大映との大一番で活躍し、東映を勝利へ導く。くしくも、挫折したはずの野球によって、八名の俳優人生は動き出す。
「そのご褒美なんだろうな。約1年後にテレビ時代劇の『紅孔雀』の主役を演じることになった」
『紅孔雀』は兄弟が悪人を退治していく物語。八名は兄役を、弟であるもう1人の主役は、澤村藤十郎(当時の澤村精四郎)が演じることになった。回を重ねるごとに人気を集め、八名の株も上がっていった。だが、
「俺の収入は上がらない。ところが、ドラマに出て殺される悪役は、死んだらさっさと次の現場へ行って稼げていた。しかも、自由に自分の芝居をつくり、死んでいくところまで自分で演じていたんだ」
輪をかけて八名にはコンプレックスがあった。取材の際も時折発せられる“岡山弁”である。
「染みついたものだから自然と出てしまってなぁ。だから、当時はセリフの多い役を望んでいなかった。一方、殺される役はセリフがほとんどない。『これだ!』って思ったよ」
『紅孔雀』と同時期、ある映画の端役として参加した八名は、監督に「身体が大きいから、撃たれて倒れたとき、砂ぼこりが立って、迫力が出ると思うんです。一回やらせてください」と直談判した。自ら悪役をやらせてほしいと売り込んだのだ。
「倒れたときにほこりが出るように、倒れる場所に灰を多くまくよう助監督に頼んだ。そして、灰を巻き上がらせるために衣装部にトレンチコートを用意してもらった。バサッと巻くように倒れれば、灰が舞い上がってダイナミックなやられ方になると思ったんだ」
カットの声がかかると、監督は喜びながらこう言った。
「迫力があるな。もう遠くを歩かんでいいから、これからはこっちへ来て死ね」
『紅孔雀』終了後、八名のもとにはドラマ『特別機動捜査隊』の刑事役のオファーが届いたという。だが、ギャラが安いという理由から断った。死ねば死ぬほど、俺は生きていくことができる─。このとき刑事を選んでいたら、後の悪役スターは生まれていなかったかもしれない。