今以上にアーティストよりレコード会社の立場が強い時代。ましてや売れていないと何も主張することができなかった。そのレコード会社から連絡先がないから、という理由で強制的に入れられた事務所の仕事とは─。
自分の知らないところで映画化が決まっていた
「あの時、所属していた事務所が、フォークソングの売り方なんて知らない。“仕事を取ってきた!”ってどんなところで歌うのかと思ったらキャバレーですよ(笑)。女の子とイチャイチャして酔っ払っているお客さんに、メッセージソングを歌ってもまったく反応なし。
こりゃダメだと思って、とっさに歌ったのが軍歌。これがウケて(笑)。お客さんたちが大合唱してくれました」
この流れの中にいたら永遠にフォークは歌えない。大事なのはアーティストが自分の意思ですべてを表現すること。
そして伊勢正三、山田パンダと“第2期かぐや姫”を結成。南自身、最大のヒットとなった『神田川』をリリースした。これで自分たちのやりたいようにやれる、と思った南だったが─。
「『神田川』の後、次のシングルはかぐや姫のアルバム『三階建の詩』に収録された伊勢の作品の『なごり雪』を出したかった。でもね、僕の知らないところでレコード会社やプロダクション、映画会社で曲をもとにした映画化が決まっていて、それに合わせて『赤ちょうちん』『妹』がシングルになったんです。
映画になってうれしかったけど、どんな内容で誰が主役なのかすら、原作者である僕たちには知らされなかった。その前に、僕に許可すら求めてきませんでしたからね(笑)」
会社に対しての不信感は募るばかり。自分たちの意思が無視されたことで、かぐや姫の解散も早まったと南は振り返る。しかし、
「全然恨んでないですよ。いい勉強になったと思います。今ならこうやって笑って話せるし、あの経験が自分を育ててくれたともいえます」
デビューしてから来年で55年、南はさまざまな“日本初”のイベントを企画したり、携わってきた。
'75年、現在の音楽フェスの元祖ともいえる、オールナイトコンサートを吉田拓郎の呼びかけで、かぐや姫と共に『吉田拓郎・かぐや姫コンサートinつま恋』を開催。'76年には日本人ソロシンガー・ソングライターとして、初の日本武道館ワンマン公演を成功させた。
そんな南に、いちばん記憶に残った出来事は?と聞くと、「いろいろとありすぎて……」と悩みつつ、「今思い出すのは、あまり話題にならなかったけど」と、当時、誰も歌ったことのない国立競技場でのコンサートを企画、実現したときのことを話してくれた。
「'84年当時、アフリカの子どもたちの飢餓救済のために、イギリスやアメリカの大物アーティストが垣根を越えて大きなコンサート(後のライブエイド)をやるらしい……、そんな流れの中で、日本でもアーティストが集まってワクワクするベネフィットコンサートができないものかと思いました。すぐに拓郎に持ちかけたんです。彼は“いいね、それ”って乗ってきて」