単身で渡米し、本場の指導を受ける

 グラフィックデザイナーの仕事を辞め、単身渡米。目指したのは、ボディビルの聖地、ロサンゼルスだ。同じジムにはアーノルド・シュワルツェネッガーもいた。

「シュワルツェネッガーはもう大スターだったけど、目の前にいるから、アドバイスが欲しければ聞ける。日本とは環境も情報量も違いました」

 ジムにはパーソナルトレーナーも多く在籍し、望めば指導を受けられる。

「私もトレーナーをつけて、まずメニューをつくってもらいました。毎日頼むとお金がかかるから、そのメニューを自分でこなしたり、他の女の人がしているトレーニングを見て、こういう種目もやるんだと取り入れたりして。何から何まで勉強になりました」

1988年、インターナショナル・ウーマンズ・アマチュア・ボディビル大会のライト級の優勝争い(右が飯島さん)で見事に勝利
1988年、インターナショナル・ウーマンズ・アマチュア・ボディビル大会のライト級の優勝争い(右が飯島さん)で見事に勝利
【写真】1988年のボディビル国際大会で優勝したときの飯島さん

 しかし、アメリカのボディビル界にはひとつ問題があった。

薬を使っているという噂があって。薬を使うと、筋肉の差がとんでもなく違ってくる。見るからに差がつくから、頑張れば私もそうなれる、なんていうレベルではなくなってきてしまうんです

 9か月余りのアメリカ留学を経て、帰国。日本でトレーニングを再開、大会を目指す。

 大会前はトレーニングと同時に食事制限で減量に励んだ。

「油抜きで、ゆでる、蒸す、焼く、が基本。ブロッコリーやにんじん、卵をゆでて、食べるのは白身だけ。鶏肉のささみを中心に、胸肉は皮を取る。味つけは塩・こしょうです」

 ストイックな日々も、大会後ようやく解禁となる。頑張った自分へのご褒美は?

「甘いもの。減量中は我慢しているから、やっぱり食べたくなるんです。でも“ご褒美”なんてそんなきれいな言葉じゃないですよ、飢えたなんとかみたいな感じ(笑)

 1988年5月に東京で国際大会「インターナショナル・ウーマンズ・アマチュア・ボディビル大会」の開催が決まると、飯島さんも出場を決意。国際大会ということで、選手は世界中から集まってくる。

 出るからには優勝したい。午前中はジムで鍛え、午後はデザイナーの仕事をし、その後またジムで鍛えた。夜9時過ぎにトレーニングを終えても、宮畑会長から「これを持って走っておいで」とダンベルを渡された。ポージングの研究にも徹底して取り組んだ。