単身で渡米し、本場の指導を受ける
グラフィックデザイナーの仕事を辞め、単身渡米。目指したのは、ボディビルの聖地、ロサンゼルスだ。同じジムにはアーノルド・シュワルツェネッガーもいた。
「シュワルツェネッガーはもう大スターだったけど、目の前にいるから、アドバイスが欲しければ聞ける。日本とは環境も情報量も違いました」
ジムにはパーソナルトレーナーも多く在籍し、望めば指導を受けられる。
「私もトレーナーをつけて、まずメニューをつくってもらいました。毎日頼むとお金がかかるから、そのメニューを自分でこなしたり、他の女の人がしているトレーニングを見て、こういう種目もやるんだと取り入れたりして。何から何まで勉強になりました」
しかし、アメリカのボディビル界にはひとつ問題があった。
「薬を使っているという噂があって。薬を使うと、筋肉の差がとんでもなく違ってくる。見るからに差がつくから、頑張れば私もそうなれる、なんていうレベルではなくなってきてしまうんです」
9か月余りのアメリカ留学を経て、帰国。日本でトレーニングを再開、大会を目指す。
大会前はトレーニングと同時に食事制限で減量に励んだ。
「油抜きで、ゆでる、蒸す、焼く、が基本。ブロッコリーやにんじん、卵をゆでて、食べるのは白身だけ。鶏肉のささみを中心に、胸肉は皮を取る。味つけは塩・こしょうです」
ストイックな日々も、大会後ようやく解禁となる。頑張った自分へのご褒美は?
「甘いもの。減量中は我慢しているから、やっぱり食べたくなるんです。でも“ご褒美”なんてそんなきれいな言葉じゃないですよ、飢えたなんとかみたいな感じ(笑)」
1988年5月に東京で国際大会「インターナショナル・ウーマンズ・アマチュア・ボディビル大会」の開催が決まると、飯島さんも出場を決意。国際大会ということで、選手は世界中から集まってくる。
出るからには優勝したい。午前中はジムで鍛え、午後はデザイナーの仕事をし、その後またジムで鍛えた。夜9時過ぎにトレーニングを終えても、宮畑会長から「これを持って走っておいで」とダンベルを渡された。ポージングの研究にも徹底して取り組んだ。