母への歌のプレゼント
ドリアンは母親の話になると、思いが込み上げ、目が潤み始める。
「母とは一緒に美輪明宏さんのコンサートへ行って、2人で泣きながら帰ってきたり、ちあきなおみさんの映像を見たりしていました。映画『アナザー・カントリー』に出ていたゲイの俳優ルパート・エヴェレットも好きで、ゲイ的なものに対しての否定もなかった。
たぶんね、私がゲイだってわかっていたと思うんです(笑)。そういえばあるとき、母から突然『あんたが結婚しようがしまいが、どこの国のどんな人を連れてこようが、それであんたがいいならいいよ』と言われたことがあって。それは今でも脳裏に残っています」
最愛の母親は2015年、63歳で亡くなった。
「ステージ4のがんだとわかったときも、悲嘆にくれる姿は一切見せなかったんです。父の前では泣いたりしたのかもしれないけど、子どもたちに病気のことを告げるときも『結構ヘビーだよ~?』みたいな明るい感じで。そういうところは本当に尊敬しますね」
闘病中、何かできないかと考えたドリアンは、母親が好きな“歌”を贈ろうと考えた。
「亡くなる1か月ほど前、ふたりのビッグショーで実家近くのホールを貸し切って、『母に捧げるバラード』というコンサートをやったんです。歌は母からもらったものなので、それで感謝を表したいなと思って。お客さんは母をはじめ家族と親戚たちがホールの真ん中に座って、兄貴たちもステージに立ってくれて。
それまでいろんな親不孝をしましたけど、あそこでひとつちゃんとできたから、母の死に対して悔いをあまり残さず済んだのかなって。今、思い返しても本当にやってよかったと思いますし、母からはいろんなことを受け継いでいる自覚があるので、死に対してネガティブな気持ちはないんです。今でも大きいステージに立つときは『母ちゃんがいたらな、見ていたらな……いや見てくれてるだろう!』と思っています」
“ドリアン”が広がった30代
母の死で「これからは好きなことをしよう、やりたいようにしよう!」と決心、理性が働いて自身を制御してきたリミッターを外したことでドリアン・ロロブリジーダの存在が拡散、拡大したという30代を経て、間もなく節目となる40歳の誕生日を迎える。
「30代は本当にいろいろ、いいことも悪いこともありました。30代の初めに母の死があって、その1年後くらいに父が赴任先のタイの方と再婚することになり、そのタイミングで私の活動が家族の知ることとなってカミングアウトをするところになったりとゴタゴタが続きました」
そのことについてドリアンの父親は「大学を中退したことに比べれば、カミングアウトしたのは全然ショックではなかった。それは僕が日本より多様性を認めている国に長く住んでいた、ということもあると思う」と話す。
「父は頭が堅い人間かと思っていたら、とてもさばけていて、スッと理解してくれたんです。タイでは周りにもたくさんいると言っていたし。勝手に見くびっていた自分が、恥ずかしくなりましたね」
これ以降父親との距離が近くなったそうだ。
「自分が寝坊して家で慌てていたら、たまたま日本へ帰国していた父が『乗ってくか?』と車で送ってくれたことがあって。父は『昔このへんで母さんとデートしたぞ』なんてしゃべって、後部座席には必死にメイクしてる30過ぎの息子がいて(笑)。自分が思っていたより懐が深いことを感じて、尊敬するようになりました」
2020年には会社を辞めてドラァグクイーン専業に。しかしその途端、コロナ禍に襲われた。
「外に出られなくなって、もともと決まっていた仕事も全部飛んじゃって、『さあ、どうしよう?』でしたね。とはいえ世界的に『どうしよう?』という時期だったので、逆に『さあ、今こそ私たちが世に一条の光を照らすわよ!』と。ネガティブな状況からポジティブなことを探し出すのは、わりと得意なほうなので!」
2020年4月7日、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に出された緊急事態宣言は、以降全国へと拡大していった。ドリアンは宣言が出る直前、パソコンに向かって昔のステージ映像を動画サイトへ載せる準備をしたり、ネット上でさまざまな人たちとのライブ配信を始めるなど、家でできることを試行錯誤したという。
「あのころは謎の使命感がありましたね。みんなコロナ禍だし、不安定だし、たぶん自分よりもっとしんどい目に遭っている人もいる……じゃあ、自分たちがやれるものをやろうって。
でもそれが結果的に、世間にドリアン・ロロブリジーダを知っていただくきっかけになりました。コロナ禍でドリアンのYouTubeを見たよ、とおっしゃってくれる方がすごく多かったんですよ」
2023年には映画『エゴイスト』に出演し、ドラァグクイーンではなくスッピン姿で主演の鈴木亮平の友人役を熱演。以降、俳優としても活躍している。
「『エゴイスト』の原作者の高山真さんはプライベートでも仲良くしていただいていたんですけど、映画化の前に亡くなって……。
でも、まさか自分が出ると思っていなかったので、電話で出演依頼があったときは、『あの高山さんの!?』とビックリしすぎて、ベッドの上で立ち上がってしまったくらい(笑)。この作品は、私にとって大きなターニングポイントになりました」