山一證券の最終面接で落ちバイトをしながら漫画を描く

 倉田さんは福岡県で生まれ、銀行員の父と専業主婦の母という家庭で育った。小さいころから漫画が好きだったが、今の作風であるギャグ漫画ではなく、『なかよし』や『りぼん』といった少女漫画を愛読していたという。

 中学時代はガリ勉で、進学校の県立福岡高校に進学。恋愛にはまったく興味がなく、少女漫画を描いては出版社に応募する日々を送っていた。大学進学で東京の大学を志望したのも「漫画を出している出版社がある東京に憧れたから」という理由だ。

親からは地元の九州大学より上の国立大学なら認めると言われて。そこで東京工業大学と一橋大学を受験し、受かった一橋大学商学部に進学したんです」と倉田さんは話す。

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 実は受験の前日、せっかく上京するのだからと作品を持って出版社に売り込みに回ったというから驚きだ。そんなにも「漫画家になりたい!」という情熱を持っていたにもかかわらず、大学に入った途端、倉田さんは漫画を描くことをやめてしまう。

「マネージャーとして入部したサッカー部の主将に恋をしてしまったんです。中高時代にまったく恋愛をしてこなかったので、恋愛に夢中になってしまって。同じゼミに当時からプロの漫画家だった黒田硫黄さんがいて、画力の差に愕然(がくぜん)としたことも漫画家になることを断念した理由のひとつでしたね」

 こうして恋愛にハマっていった倉田さんだが、少女漫画の世界の恋愛を現実に当てはめてしまい、うまくいかなかったという。

付き合ってもいないのに肉じゃがを作って持って行ったり(笑)。そりゃあ“重い女”として嫌われますよ

 21歳のときに初めて彼氏ができたが、そこから“だめんず”を渡り歩く歴史が始まった。「中国マフィアに狙われているからお金を貸してほしい」とウソをつく男や、別れ際に家具をすべて持ち去る男など、のちの代表作『だめんず・うぉ~か~』のもととなる恋愛体験が続いた。

 大学卒業後は就職するつもりだったが、就職氷河期に当たり、優秀な一橋大学の学生でも就職に苦労した時代だ。「漫画家になれないなら、編集者になろう」と考えた倉田さんは出版社を片っ端から受けたが採用してもらえず、唯一、最終面接まで残ったのが山一證券だった。

「面接では『東洋経済や日経新聞を読んでます』と、すぐバレそうなウソを並べましたが、経済の基本的なことを質問されてもわかっていなくて失敗しました。このときにちゃんと面接対策をして採用されていたら、漫画家にはならず、違う人生を送っていたと思います」