「吉原」に危機
そんな中、幕府公認の遊里「吉原」にも危機が訪れる。
幕府非公認、つまり“もぐり”の色街「岡場所」が品川、新宿、板橋、千住の江戸四宿のほか深川などで発展。最盛期には200か所近くもあったというから「吉原」にとっては、目の上のたんこぶに違いない。
しかも「吉原」に比べて遊興費が安く堅苦しさもないことから「吉原」がいくら訴え、摘発されてもなくなることはなかった。
ライバルは、色街ばかりではない。天明期にかけては浮世小路の百川(ももかわ)、佐柄木(さえき)町の山藤(さんとう)、向島の葛西太郎、中洲の四季庵など贅(ぜい)をこらした美食でもてなす料理茶屋も登場。
それまで宴会といえば吉原と相場が決まっていたが、その牙城すら崩されつつあった。そんな時代に生まれたのが、“蔦重”こと蔦屋重三郎なのである。
プロデューサーとしての蔦重の力
江戸・吉原に生まれた蔦重は、吉原の大門に至る五十間道(ごじっけんみち)にある茶屋「蔦屋」の軒先で、貸本屋を始める。20歳過ぎのことである。
やがて書店兼貸本屋『耕書堂』を開店。吉原のガイドブック『吉原細見』をヒットさせ、自信を持って吉原の錦絵本『青楼美人合姿鏡』で勝負に出る。ところが値が張るために一向に売れず、多額の借金を背負ってしまう。
しかし、そんなことでへこたれる蔦重ではなかった。借金のカタに吉原の8月の催しを任された蔦重は、一計を案じる。
「歌舞伎のまね事をする『俄(にわか)』に当代一の美声とうたわれた浄瑠璃の太夫・富本午之助を招くことに成功すると、吉原の俄を題材にした『明月余情』を刊行。
さらに2代目・富本豊前大夫に襲名した午之助の許しを得て直伝本を売り出すと、これがまた大ヒット。浄瑠璃語り“江戸一”とうたわれたスーパースターの心をいったいどうやってつかんだのか。蔦重のプロデューサーとしての手腕は見事としか言いようがありません」
安永4年(1775年)から始まった『吉原俄』はやがて大正時代まで続く一大イベントとなる。
そのイベントを成功に導き、浄瑠璃界の大名跡の襲名披露を実現させた蔦重は、出版界の垣根を越えメディアミックスを成し遂げたメディア王ともいえる存在だったに違いない。
