当時の小和田雅子さんは、外交官試験に合格したばかりで「外務省から内定をもらったとき、これで自分は結婚できないかもしれない、とも……。両立させたいですね」と新聞のインタビューでお答えになっている。
「その後、雅子さまは皇太子さまにパーティーなどで何度かお会いになり、皇太子さまの思いは高まっていったようです。
一方、雅子さまは外務省の在外研修生として英国のオックスフォード大学に留学することになり、連絡は途絶えたようです。
また、雅子さまの母方の祖父が、水俣病の原因となったチッソ社の社長を務め、宮内庁内にも皇太子妃として異論が出たことで、皇太子さまは1度はあきらめられたようです」(宮内庁関係者)
しかし、その後の皇太子さまの猛アプローチもあり、'93年に、おふたりは華燭の典を挙げられた。
しばらくは子宝に恵まれず、愛子さまの誕生後は「適応障害」に苦しみ続け、結婚生活の半分以上が療養生活となってしまった雅子さま。
「最近では、ご病気という挫折を乗り越え、愛子さまのご成長もあってか、雅子さまのお出ましは増え、苦手とされる行事にも出席されるようになりました。
天皇陛下が生前退位の意向を示されたこともあり、次の皇后としての自覚と覚悟がより深まってきているのだと思います」(前出・渡辺さん)