「'12年6月に寬仁さまが薨去されたときも、直前に信子さまは入院先を訪問しましたが見舞いを拒否され、ご臨終の際もお別れの儀式もご夫妻の対面はかないませんでした。
信子さまとの離婚を考えていた寬仁さまの強いご意思を、彬子さまと瑶子さまも共有されていたと思われます」(皇室ジャーナリスト)
ところが、寬仁さまの死後、信子さまの活動はにわかにご活発に。
料理本を出版し、地方公務から園遊会や宮中祭祀まで精力的に活動されている。
信子さまのそんな“マイペース”なご活動ぶりに、彬子さまはご不満をあらわに。
月刊誌で母親に対して、公務に復帰するのであれば、国民への理由説明と、当主の三笠宮さまへ挨拶をするべき─という異例の手記を公表された。
「結局、信子さまの病状は発表されましたが“ストレス性ぜんそくが再発する”として、挨拶をされないままでした。
それが原因か、この8月15日ごろに三笠宮さまの入院先を信子さまは訪問しましたが、お見舞いはできなかったようです」(三笠宮家関係者)
7月末には現在、彬子さまと瑶子さまがお住まいの赤坂東邸(旧寬仁親王邸)に、信子さまが弁護士と鍵業者を伴いご訪問。
お住まいに“侵入”し、私物をお持ち帰りになるという異常事態も発生。
そこまでこじれてしまったご夫妻の「不和」の原因を、ある皇室関係者が打ち明ける。
「トモさんの『DV』(家庭内暴力)は、結婚初期のころからあったのは事実で、それは昭和天皇のお耳にも入っていたようです。
“彼女が一番”と信子さまを選ばれて“期待”があったぶん皇族らしからぬ性格や言動に失望し、暴力やアルコールに走ってしまわれたようです」