伝説の番組『電波少年』で1年以上続いた懸賞生活
すると、T氏は「じゃ、脱いで」「え?」「まあ、裸一貫からのスタートになるから。まあ、この企画が面白くなるかどうかはわからないし、とりあえず放送はしないから」
そう言われ、なすびは、しぶしぶ全裸に。こうして始まった「懸賞生活」。手渡されたのは、大量のハガキと筆記用具と乾パンだけ。定点カメラがセットされ、ビデオは自分で録画するように言われた。そして発売された雑誌が毎日、届けられる。
ただただ雑誌の懸賞広告を見て、応募ハガキをせっせと書き乾パンをかじる日々。1日の終わりには日記をつけることも義務づけられていた。外界との接触はおろか家族に連絡すらできない。
「あとで親から聞いた話では“今、事情があって息子さんを預かっています。その事情はお話しできないんですが”という電話がかかってきたというんですね。まるで誘拐犯(笑)。そして“何月何日の『電波少年』という番組を見れば息子さんの状況がわかります”と言われたらしい」
番組は深夜にもかかわらず高視聴率を叩き出し、学校では「昨日のなすび見た?」という会話が当たり前のように交わされた。
テレビの中のなすびは、髪の毛もヒゲも伸び放題、時の流れをリアルに伝えていた。
「懸賞生活」は、'98年の1月15日から開始、年末には獲得した賞品総額が100万円に達した。そこで終了かと思いきや、目隠しをされ、韓国に連れて行かれ、再び「懸賞生活 in Korea」が始まる。
3か月後、目標金額の飛行機料金額を達成し、無事帰国が許され、なすびは1年3か月ぶりに福島の実家に帰った。
「懸賞生活といいながら“人間はどれだけ孤独に耐えられるか”という企画だったんですね。のちに本で読んだら、中世のヨーロッパには死刑よりも重い刑があって、それは罪人を狭い部屋に閉じ込めて単純作業を繰り返させる、それで人間は自然に精神がおかしくなる、そういう刑なんですね。まあ、僕はそんな刑罰をやらされてたんですよ」
いじめられっ子がコンプレックスからお笑いを目指す
なすびの父親は警察官だった。そのため転勤も多く、何度も転校を余儀なくされた。
「僕はいじめられっ子だったんです。子どものころから顔が長かったから。そのうえ、小学校も3回かわっていたので友達もできなかった」
そんな少年の楽しみは、テレビのお笑い番組。中でもドリフターズの『8時だョ!全員集合』が大好きだった。
「試しに学校で、顔を使ってバカなことをやってみたんです。そしたら、みんなが笑ってくれた。そしてちょっとずついじめが減って友達が増えていきました。転校のたびにそういうことの繰り返しでした。そこで気づいたんです。人を笑わせたり、楽しませたりすることは周りを幸せにできるし、最終的には自分も幸せになれる─そんなことを子ども心に思ってたんですね」
福島東高校の卓球部でなすびとダブルスを組んでいた安斎淳さんは、高校時代のなすびは、まじめだったと言う。
「はまっちゃん(なすび)は、中学時代は別の中学でしたが、顔がインパクトあったんで覚えてた(笑)。高校で一緒になってすぐ仲よくなりました。本当にまじめで、部活でみんなが好きな女の子の話なんかしてもまったく乗ってこない。成績も優秀で最初は考古学者になりたい、なんて言ってましたが、だんだんお笑いや喜劇に興味を持っていったようですね。それでも、『電波少年』に出たときは驚きましたよ。ずっと見てましたけど、“あのまじめなはまっちゃんが”と思ってました」