島田、荒井と沖縄戦で殉職した県職員らを祀る「島守の塔」。左奥は両氏の終焉の地を示す碑があるものの、最期の場所は不明なまま。生存した県職員や県民の寄付で昭和26年に建立された
島田、荒井と沖縄戦で殉職した県職員らを祀る「島守の塔」。左奥は両氏の終焉の地を示す碑があるものの、最期の場所は不明なまま。生存した県職員や県民の寄付で昭和26年に建立された
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 田村氏の著書『沖縄の島守』には、このときのやりとりが記されている。

 上司からの沖縄県知事の内命を受け当然、夫人は納得がいかない。島田は「誰かが行かないといけないとなれば、言われた俺が断るわけにはいかない。嫌だから誰かに行けとはいえない」と告げた。

「島田さんは家族に相談もなしに即決してしまった。夫人はこの拝命に対し、ひどいと悲しんだそうです」(田村氏)

 さらに、追い打ちをかけたのはその別れ方だという。

「島田さんは“仕事を片づけたらすぐに帰る”と告げたため、家族の見送りは不十分。沖縄についたら仕事に追われ、地上戦も始まり、帰るどころではなくなった。手紙も1通しか届いていない」(田村氏)

 しかし、島田は出発時にピストル2丁、日本刀、青酸カリを自決用に持っていたといい、覚悟は決めていたようだ。  

 島田が亡くなったとき、夫人は36歳。10代の娘2人を抱え、混乱に投げ出された。

「残された家族は戦後は東京・吉祥寺の都営住宅に住んでいました。そこで女学生を下宿させ、雑貨を販売するなど必死で働かれたようです」

 田村氏はかつて夫人に取材を試みた。しかし、「話すことはありません」と言われ、ついにかなわなかった。

 その後、田村氏が夫人の兄から聞いたところによると、

「夫人はお兄さんに、顕彰や取材は沖縄戦で亡くなった多くの人を考えると遠慮すべき、と言っていたそう。しかし、実のところは“島田のことを思い出すのがつらい”という気持ちがあったようです」

 夫人が島田の慰霊祭に出席したのは1度だけだった。

 そしてもうひとり。荒井退造は栃木県宇都宮市出身。島田より1年7か月前、県警部長として沖縄県に赴任した。