「置かれた場所で咲きましょう…」数年前にベストセラーになった自己啓発本のような、一見“ポジティブ”な生き方を真っ向から否定する『心がラクになる生き方』が話題の僧侶・南直哉さん。過激な語り口には熱心なファンも多く、全国から講演依頼が殺到。不安や怒り、執着、嫉妬を手放し、楽に生きるには「苦しみに立ち向かう」必要はないと語ります。
つらさを飼い慣らし楽な生き方を提案
書名だけ目にすると、笑顔の禅僧が人生を優しく説いてくれる本だと思われそうだが、とんでもない。目次を見るだけで“おいおい”と言いたくなる内容である。
●「自分を大切にする」ことをやめる
●「生きる意味」は見つけなくていい
●「なりたい自分」になれなくたっていい
●「置かれた場所」で咲けなくてもいい
●「夢」や「希望」がなくても生きていける
まるで、これまでの人生教訓本をすべて否定するような中身なのだ。
著者は、曹洞宗・永平寺で約20年の修行生活を送り、現在、福井県霊泉寺住職で、青森県恐山菩提寺の住職代理を務める南直哉氏。本のスタイルは、過激な見出しがあり、その解説が数ページ続くという形式で、とても読みやすい。
最初は「ホント?」と首を傾げながら読み進むうちに、次第に「なるほど」と納得していく内容だ。
例えば、冒頭にある《「自分を大切にする」ことをやめるに》について──そもそも「自分」とは、自分自身の「記憶」と「他人からの承認」でしかない。そんな不確かな「私」を大切にするとは、何をしたいと言ってるのか。(中略)人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。そのむりやり「自分」にさせられた自分と折り合いをつけ、苦しさに「立ち向かう」のではなく、その状況を調整し、やり過ごして生きていく。私がこれから話したいのは、そういう生き方についてです──。
「やりたいことをやるのがいいことなどと言われますが、もっと大事なのは、やりたいことではなく、やるべきことは何なのかを知ることなんです」
本書には、“やるべきこと”がわかっている例として職人が登場する。大工、農家、庭師、豆腐屋、寿司屋。“職人”“職人技”と認められるほどの腕があり、仕事で評価されている人たちは“やるべきこと”が決まっていて、それを最優先する。だから、人に対して見栄もてらいもない。自分自身が評価されなくても“自分の仕事”が評価されればいいからだというのだ。
南住職は、過激で辛口な内容の著書が多く、熱心なファンを持つ。その語り口は、講演などでも冴え渡り、全国から講演依頼が殺到している。最近は、違う宗派の集まりに招かれて話すことも少なくないらしい。
「社会の中の宗教について真っ向から言う僧侶がいないからでしょうね。講演のテーマは、最近は、“死”について。“死”をどう考えていいのかわからないという人が多いんですね。ほとんどの人が宗教を持たないために、考える“ツール”がない。昔は、家で人が亡くなり、弔いも行われましたが、若い人は知らない。だから答えがわからないんですね。
弔いとは、ただ死者を悼み、見送るだけの行為ではありません。死者と新たな関係を結び直すことを指すのです。そして、僧侶の弔いには、“遺体”を“死者”にする役割がある。そんな意味で、仏教は、生きていくために有効な“ツール”といえるんです」