昨年の『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)で4094組の中からみごと優勝を果たした、とろサーモン。苦節15年。大阪時代は期待のホープとして活躍を渇望されながら、’10年に東京進出後は仕事が激減。長い下積み期間を経て、一夜にして人生を変えたふたりに直撃っ!
村田「優勝後、LINEは800件ぐらいメッセージが届きましたね。先輩方からも“テレビの前で泣いた”とか、熱いメッセージが多かったです」
久保田「離婚してからしばらく連絡のなかった元嫁からも来たんです。僕自身、元嫁には未練はないんですけど、6年前に僕というビットコインを手放さなければ、大金持ちになれたのにもったいな……とは思いますね」
村田「仮想通貨でたとえんなよ!」
『エンタの神様』などネタ番組が全盛だったころ、久保田の話を村田が無視して漫才を進める“すかし漫才”で台頭を現し、全国区のテレビにもたびたび出演。
村田「あのスタイルでたくさんテレビに出させてもらっていたけど、自分たちの中では何か違うと感じていて」
久保田「“すかし漫才”というシステムが評価されていただけで、僕たち自身が評価されていたわけではなかったんですよね。この世界、システムだけで上に行けるほど甘くないと思うんです」
東京進出後は、売りだった“すかし漫才”を封印したこともあり、仕事のない暗黒期に突入。食いつなぐため、さまざまなアルバイトも経験した。
村田「大阪時代は美味しいものが食べられるぐらいの月給だったのに、東京に来てからは月3万円ぐらいになってしまって……。それで僕はバーでバイトを始めました。
その店のオーナーが酔うと“面白いことをやれ!”とムチャぶりする人だったんです。ある日、某大手飲料メーカーの社長の前でコサックダンスをやったら、キンキンに冷えた反応をされました(苦笑)」
久保田「清涼飲料水の炭酸のようには弾けなかったんだ(笑)。僕は社長のご機嫌取りで靴磨きとかをやっていました。お小遣いで2万円もらえるから我慢してやっていましたよ。バイトは20種類ぐらいはやったんじゃないかな?」
つらい時期、大阪や実家の宮崎に帰ろうと思ったことは?
久保田「特攻隊の零戦と一緒。東京行きの片道分の燃料しか積まずに来たから、もしダメでも東京で骨をうずめる覚悟だったので、それはなかったです」
村田「お金がないから遊びにも行けなくて、仕事のない日はひたすら部屋にいました。ある日、部屋で長渕剛の曲を聴いていたら悲しくなって、気がついたら部屋で四つん這いになって40分泣いていたことはありましたね……」
久保田「僕は死のうと思って、賞味期限がかなり過ぎた腐ったサバ缶を食べたんです。でも貧乏で免疫がつきすぎて、死ぬどころか食欲がわいて、白飯を買いに行きました(笑)」
村田「サバ缶で死のうとしていたのかよっ!! やっぱり仕事も金もないと人間、余裕がなくなるので当時はコンビ仲もよくはなかったですね」