目次
Page 1
ー 寄せ集めバンドの17人目のメンバー・杉山清貴 ー 夢をペンからギターに持ち替えて
Page 2
ー ジョージ・ハリスンに憧れた理由
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ー ポプコン連続出場からプロデビューへ ー 藤田氏がプロデュースバンドのコンセプト
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ー 寝耳に水のバンド名にささやかな抵抗
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ー 人気絶頂の中、解散。その真意とは ー ツアーの途中でオメガトライブを脱退
Page 6
ー 売れなければ自己責任のソロデビュー
Page 7
ー デビュー40周年でたどり着いた境地

 1日だけで終わるはずのバンドだった。

 1978年12月23日。ロックの聖地とも呼ばれていた東京・霞が関の久保講堂に、お祭り気分で集まった17人の若者たちがいた。その中心メンバーで、当時は高校3年生だったギタリストの吉田健二は振り返る。

寄せ集めバンドの17人目のメンバー・杉山清貴

「音楽を始めたときは、ただただギターを弾いていたかった。だから自分がヴォーカルになって歌うことに対して特別な思いはなかった」と、語る杉山だが、その歌唱力はアマチュア時代から周囲の誰もが認めていた。撮影/渡邉智裕
「音楽を始めたときは、ただただギターを弾いていたかった。だから自分がヴォーカルになって歌うことに対して特別な思いはなかった」と、語る杉山だが、その歌唱力はアマチュア時代から周囲の誰もが認めていた。撮影/渡邉智裕

「僕の兄がフルハウス(後のエイプリルバンド)というバンドのベーシストで、久保講堂でコンサートをやるから、おまえらが前座をやれって言われたんですよ。で、自分のバンド仲間に声をかけると、暇な連中がいっぱい集まってきたんですけれども、ヴォーカルがいなかった。それなら“ダメ元で1年先輩の杉山君にお願いしてみよう”ということになって、頼みに行ったら“うん、いいよ”って、杉山君はあっさり引き受けてくれたんです」

 こうして寄せ集めバンドの17人目のメンバーになったのが、地元・横浜のライブハウスでアルバイトをしていた杉山清貴だった。

「僕らのまわりでいちばん歌がうまいのは杉山君でしたからね。彼が入ってくれたら何の心配もいらなかった。ただ、1回で終わるバンドですから先のことなんか考えていなくて、バンドの名前も面白ければいいだろうって、『きゅうてぃぱんちょす』に決まったんです」(吉田)

 オープニングアクト(前座)とはいえ、きゅうてぃぱんちょすのステージは会場を大いに沸かせた。

 1日で解散するには惜しいパフォーマンス。祭りの余韻から覚めて日常に戻るメンバーたちの一方で、「もうちょっと続けようか?」と、自分の正直な気持ちに抗えないメンバーもいた。

 杉山は言う。

「大学でもない、就職でもない、そのどちらにもはまりたくないヤツらが、将来はどうなるかわからないけれども、夢だけを追い求めて生きていきたくてバンドに残ったんです」

 それから4年半後。きゅうてぃぱんちょすは『杉山清貴&オメガトライブ』と名を変えて、日本の'80年代シティロックシーンに鮮烈なデビューを果たすこととなる。

夢をペンからギターに持ち替えて

練習スタジオで、録音したバンドの音源を流していたアマチュア時代。「自信があったんでしょう」と杉山は苦笑いで振り返る
練習スタジオで、録音したバンドの音源を流していたアマチュア時代。「自信があったんでしょう」と杉山は苦笑いで振り返る

「おふくろが日本舞踊と常磐津のお師匠さんだったんですよ。家には毎日お弟子さんが通ってきていて、朝から晩まで、ちんとんしゃん、ちんとんしゃん……って」

 杉山は'59年に横浜の磯子で生まれた。産声を上げたときから音楽は身近にあった。が、幼少期に受けた邦楽の洗礼は、必ずしも楽しい記憶ではなかったという。

「小学校に入るくらいまで三味線を弾かされましたけど、ビシビシ鍛えられて、もうイヤで、イヤで。子どものころは絵が好きで、漫画家になりたかったんですよ。石ノ森章太郎さんの『マンガ家入門』という本を買って、漫画を描く道具をそろえて、学級新聞に4コマ漫画を描いたりしていました」

 小学4年生のある日。休み時間に同級生の漫画友達が似顔絵を描いていた。見たことのない4人の外国人。

「それ、誰?」

「ビートルズ」

「ビートルズって?」

「ウチにレコードあるよ」

 遊びに行くと、友達の5歳上の兄がビートルズのレコードを貸してくれた。

「何のアルバムかは覚えていないけど、家に帰ってポータブルプレーヤーで聴いたら、今までに触れたことのない世界が瞬間的にバーンと広がるような衝撃が走って。それからは漫画も描かずにビートルズばっかり聴いていた」