3月から再開するサッカーW杯アジア2次予選。7月にはパリ五輪が開催される。スポーツのビッグイベントが続く今年。その会場には、フリーランスのプロスポーツカメラマンとして、シャッターを切る日本人の姿があるかもしれない。
「私は、海外遠征をするときや大切な試合の際は、必ず日の丸をつけて挑みます。多くの代表選手が、何かを犠牲にし、対価を払って手に入れた代表の切符です。カメラマンも、その気持ちを少しでも理解して撮影に臨まなければ、本当の姿は写せないと思うんです」
そう語るのは、小中村政一さん(44)。フリーランスにもかかわらず、MLB(メジャーリーグ)、FIFA(国際サッカー連盟)、USGA(全米ゴルフ協会)が現場で撮影することを認める、世界でも数少ないスポーツカメラマンの一人だ。これまで、イチローやダルビッシュ有といったビッグネームから、少年野球に励む無名の子どもたちまで、スポーツと向き合う多様な被写体を撮影してきた。
「自分自身、肩書を持ちません。ですから、肩書で判断したくない。伝えたいと感じたものは、有名無名問わず撮りたい」(小中村さん、以下同)
世界の大舞台で「戦う」スポーツカメラマン
フリーだからこそ、自分の意思で、撮りたいものを撮れる。だが、「子どものころから趣味としてカメラは好きだったけれども、プロになろうとは一切思っていなかった」。異色のスポーツカメラマン。その半生は波瀾万丈であった。
「中学3年生のとき、阪神・淡路大震災が発生し、自宅が半壊してしまいました。一時、小学校時代の同級生の自宅に住まわせてもらったのですが、その家のお父さんが開業医で馬主でした」
震災の影響で阪神競馬場は閉鎖されていたが、毎週のように京都競馬場へ出かけ、一緒に応援したという。苦しい時代を支えてくれた馬への愛着。競走馬の生産から育成、騎乗調教までを一貫して行う厩務員(きゅうむいん)になろうと決意した。
しかし、実の父は関西では有名な会社を経営する合理的な考えの持ち主だった。「帝王学を地で行くような人」と小中村さんが苦笑するように、父と子としての関係性は、うまくはいっていなかった。父からは大学へ進学するよう説得された。その反対を押し切り、小中村さんは厩務員の夢を選んだ。
ところが──。
「ファームで馬の面倒を見ていると、突然、父がやってきたんです。騎乗調教をするため、僕もジョッキーと同じ体形でしたから、体重は48キロほどしかない。ガリガリの身体を見て思うところがあったのかもしれません。『このままずっと馬を育てるのか?』と尋ねてきました」
小中村さんにはファームの一員として日本ダービー馬を育てるという夢があった。だが、父親はこう言い放った。
「馬主になってダービーを取る。そういう気持ちはないのか?」
心が揺らいだ、と正直に打ち明ける。
「父のことを経営者としては尊敬していました。偉業をなしえた父親から何も学ばずに終わっていいのか……息子である私にしかできないことがあるのだとしたら、それにトライしてみたくなりました」
いったん、競走馬の世界に区切りをつけ、父の会社の子会社であるIT関連企業へ転職した。26歳のときには上海で起業。その1年後には、日本の一部上場会社(不動産デベロッパー)からヘッドハンティングされた。順風満帆……のはずだった。