日本女性として初めて、さまざまな道を切り開いた人物をクローズアップする不定期連載。第5回は日本女性として初めて、プロボディビルダーとなり、ボディビル界のレジェンドである飯島ゆりえさんのストイックな生活と意外なセカンドキャリアを聞いた。
「プロの大会は観客がみんなドレスアップしてくるので、すごく華やかでまさにエンターテインメントという感じ。アメリカの観客は盛り上げてくれるから、もう会場全体が沸くんです。私は日本人なので、日本的なポージング曲や振りといった要素を入れるとウケて盛り上がります。拍手をもらうのがすごく楽しかったですね」
1980年代にウエイトトレーニングを始め、日本女性で初めてプロのボディビルダーとなった飯島ゆりえさん。
今も昔も日本人女性のIFBB(International Federation of Bodybuilding and Fitness)のプロボディビルダーは飯島さんただ1人で、ボディビル界のレジェンドとして知られている。
現役時代の映像が今も残っている。音楽に合わせてポーズを決め、あでやかに微笑む彼女。逆三角に鍛えられた筋肉は隆々として美しい。
幼少期は運動神経ゼロでスポーツ嫌いだった
幼いころからさぞかしスポーツ万能だったかと思いきや、「スポーツは嫌い。運動神経はゼロ。子どものころは根暗でした(笑)」と意外な言葉。
グラフィックデザイナーとして働いていたときのこと。
「たまたまアメリカの女性ボディビルダーの写真集を会社で見て、きれいだなって思ったんです。当時のアメリカの女性ボディビルダーは今と違って岩のようにゴツくはなく、引き締まっていて、なおかつ女性的な感じでした」
そんな折、西武池袋カルチャースクールの「女性のためのビューティーボディビル講座」のパンフレットを偶然目にし、軽い気持ちで飛び込んだ。
カルチャースクールゆえ、フロアにマシンが数台あるだけの簡易版。筋トレなど初めての体験だったが、自身の隠れた才能に触れる。
「当初は運動不足解消程度の気持ちでした。でも言われたとおりの負荷にしたら、軽い!と思ったんです。トレーニングに抵抗はなかったし、全然嫌じゃなかったんです」
そこでトレーナーを務めていたのが宮畑豊氏。ボディビル界のカリスマ的存在で、ほどなく「僕のジムに来ないか」とスカウトされている。
御徒町(おかちまち)にある宮畑会長のジムで、改めてトレーニングが始まった。マシンもカルチャースクールとは違う本格派で、ジム生の様子も明らかに違う。
「なんだか汗臭いし、男臭いところでした(笑)」
当時すでに30歳を超えていたが、素質があったのだろう。時を置かず、宮畑会長から「大会に出ない?」と誘われ、言われるがまま出場する。だが結果は予選落ち。審査員には「筋肉がつきすぎている」と指摘された。「ボディビルダーの大会なのになんで……」と飯島さん。
トレーニングを重ね、翌1983年の「第1回ミス東京ボディビル選手権」に出場。見事、優勝を果たしている。ボディビルを始めてまだ1年ほどのことだ。その後も1984年「第1回ミス関東」、1986年「ミスマッスル」と、次々に栄冠を手にしていく。
当時はボディビルの黎明期。先駆けだけに、悩みもあった。
「女性の指導者はいないし、男性が男性を指導するような感じで言われても……。情報もあまり入ってこないから、どんなトレーニングをしたらいいのかも、何を食べたらいいのかもわからない。これは自分で勉強して知識をつけないとダメだと思って。本場に行こうと決めました」