■恋人占いコーナーの“モグラのお兄さん”
昭和43年(1968年)に始まり約22年間にわたって生放送された長寿番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)。番組の中の『コンピューター恋人占い』のコーナーが一躍注目を浴びたのが俗に言う“泣きの夜ヒット事件”だ。
ゲストの中村晃子、いしだあゆみ、小川知子が放送中に突然号泣するハプニングが起きたのだった。ちなみに、そのとき恋人に選出されたのは、中村と小川が司会の前田武彦さん、いしだは森進一だった。
テレビを見ていた人たちは、いったい何が起きたのかも理解できないまま、茶の間も大いに盛り上がったものだった。
彼女たちが泣きだした理由は今でも明らかになっていないが、翌日のスポーツ紙を含め芸能マスコミをにぎわす“事件”となったのだ。
当時、コンピューターを操作して恋人を選び出していたのが“モグラのお兄さん”と呼ばれていたアナウンサーの小林大輔。
小林はフジテレビに入社3年目だったが、新人研修のときからゴールデンタイムの番組を担当するなどしており、局の看板アナウンサーの呼び声も高かった。
「昭和40年にフジテレビに入社しまして、でも、私は決して“芸能アナ”を目指していたわけじゃないんです。スポーツアナとか報道アナをやろうと思っていたんですよ。ところが、芸能部門に回されちゃったんですね」
コンピュータールームはフジテレビ社屋の一角にあったが、『ヒットスタジオ』を放送しているスタジオとは離れていた。小林はその部屋で、モニターに映ったスタジオの様子をながめながらコンピューターを操作していた。
コーナーが始まると、テレビ画面の下のほうに小林の顔が丸く抜かれて現れる。いわゆる『ワイプ』だが、その様子がまるでモグラが穴から顔を出したように見えたので、前田武彦さんが「モグラのお兄さん」と呼んだという。
「30項目くらいを入力して、一致する項目が多いということで恋人が選出される仕組みでした。当時はまだコンピューターが珍しい時代でしたから、機械が選んだ恋人だということで、視聴者もみんな感激したんだと思います。ただ、泣いた歌手たちは“人知を超えた侵し難い宿命”のように思い込んじゃったんでしょうね(笑い)」
■まさか自分が“恋人”に選ばれるなんて
コーナーも少しずつ評判になってきたころ、オペレーターの小林自身が驚く結果が。
「水前寺清子さんに適した恋人を占ったら、なんと私の名前が出てきたんです。いや~驚きました。でも、その日は『ヒットスタジオ』の最高視聴率を記録したんですよ」
印象に残っている歌手を聞いてみた。
「ちあきなおみさん。あるとき地方ロケが終わり新幹線で東京に戻るとき、駅弁が配られたんです。ちあきさんは駅弁のフタを開けると、裏についていたご飯を1粒ずつ取って食べ始めたんです。その光景を見て、この人は苦労した人なんだなと思いました。それで注目していたら、ヒット曲を飛ばすようになったんですね。でも、すぐに引退してしまって、残念ですね」
日吉ミミにも驚かされた。「あるときスタジオの隅でミミさんの隣に腰かけていたら、彼女が都バスの回数券をパラパラと取り出したんです。意外に思って“あんなに歌が売れているのに都バスなんか乗るの?”と聞いたら“都バスでフジテレビに来てるのよ。曲がヒットしても歌手はお金が入るまでタイムラグがあるの”と言ってました」
八代亜紀はいつも手書きの礼状を送ってくれたという。
■定年を待たずしてフジテレビを辞めた理由
人気者になった小林だったが、そろそろ希望していた報道部門に異動させてもらおうと会社に申し出たら、
「“小林、ダメだよ。お前はもう芸能部門で売れちゃって、定着しちゃってるんだから”と言われて叶いませんでした」
それに加え、あらゆる番組に出つくして、どんな番組に出ても感動が得られなくなっていた彼は定年を待たずしてフジテレビを辞めることに。
「いま思うのは、テレビの時代はもう終わったのではないか、ということ。画面に出ている人も、放送している内容もレベルが低い。当時はちゃんとお金をかけて、社員が腕をふるって一生懸命、丹念に番組を作っていた。今は外部に発注して、いかにお金をかけずに番組を作らせるか管理するだけ。これじゃいい番組は作れない」
と苦言を呈する。
「テレビがいちばん輝いていた時代に、私はアナウンサーをやっていました。だからとても楽しかった」