「私が子どものころ、母がよくこんなことを言っていました。"貧乏からこんだけ金持ちになりましたって、えばったらあかんよ。儲けることも大事やけど、そのお金をどう動かしていくか、どう使うか。それがでけへんかったら、本当にお金持ちとは言えないよ。せやから税のこと保険のこと、いろいろ勉強せなあかんよ"」
’04年に実母が脳梗塞で倒れて以後、介護生活を送ってきたジャズ歌手の綾戸智恵。’11年ごろに認知症を発症した母ではあるが、綾戸の根幹にはいつも彼女の言葉がある。
一方でアメリカ・ニューヨークでの生活を経て、ジャーナリストとしての道を歩んでいる堤未果氏。’08年には著書『ルポ 貧困大国アメリカ』が40万部のベストセラーとなるが、転機が訪れたのが’10年4月のこと。父でジャーナリストの先輩・ばばこういち氏の他界だった。
「父が最後に病床で言ったんですね。それまでいろんなことを取材し、調査していたけど、自分の健康保険証についてだけは、空気のように当たり前に思っていて無関心だった。何も知らなかったって。自分が死にかけて初めて、"こんな大事なものが日本にはあったのか!"と気づいたと。でも"自分にはもう時間がない。お前が代わりにやりなさい。この宝物を守るために、お前がその価値を日本人に伝えてくれ"と。それが父の遺言になってしまいました」
父の遺志を継いで、医療制度について取材を始めた堤氏。そして’14年から’15年にかけて、アメリカの医療実態と、日本の健康保険証を守る方法などをまとめたのが、『沈みゆく大国 アメリカ』『沈みゆく大国 アメリカ〈逃げ切れ!日本の医療〉』(ともに集英社刊)の2部作だ。
自分や家族が病気になって気づく
綾戸「以前は保険って、私の常識では日本人は貧富の差関係なく誰でもが同じ医療を受けられると思っていたし、そこに日本のよさがあったわけですよ。私がアメリカで出産したとき"お金がなくて出産できない方もたくさんいる"って聞いて、日本はええ国やなと。ずっとそう思ってたんですけど、堤さんの本を読んで"ああ、ここまで欧米化の波が来ているとは"と知らされましたよ」
堤「綾戸さんだけじゃないですよ。私たち日本人って、ほとんど医療制度のことなんか知らないんです。私もそうでしたが、自分か家族が病気になって、治療や入院となって初めて"ああ支払いが"、"健康保険は?"と思うんです。この健康保険証が、大儲けできるチャンスとしていま狙われているなんて、夢にも思わないですよね?」
ふだん手にしている健康保険証や、あまり存在の知られていない「高額療養費制度」など本来、日本には国民のための医療制度が存在している。しかしアメリカでは日本のような国民皆保険制度はなく、個人が自己責任で民間の高額な医療保険を買うという。ところが公的な日本の保険と違い、民間の保険商品は容赦ない。保険会社は支払いをしぶることもあり、保険を持っていても自己負担が高すぎて医療破産する人が年間90万人も出ているようだ。さらに堤氏によると、アメリカでは医療保険と薬ビジネスは儲かる巨大商業になっていて、その次のターゲットとしているのが世界一、早く高齢化している日本の医療と介護だという。
堤「父は最後、数えきれないほどのお薬を飲み、機械につながれて死にましたが、私たち家族は、とにかくできるだけ延命したい思いで必死でした。でもいま振り返ってみると、結局、人間ってどれだけ延命するよりも、最後、好きな人と好きな場所でどう気持ちよく死ねるかというほうが大事なんだなあと思います。日本には"お互いさま"という素敵な言葉がありますよね」
綾戸「お互いさまはええな」
堤「先日、日本在住のアメリカ人と話す機会があったんですが、考え方の根本が見事に違う。"お互いさま"にピンときていなくて、"日本は国民健康保険料が高すぎる。自分は頑張って努力してお金も稼いで健康なのに、何でほかの人の保険料まで払わなくちゃいけないの?"と。アメリカの憲法には国が国民のいのちと健康を守る25条(生存権)のようなものはなくて、書かれているのは個人が自分の幸せを"自由に"追求する権利なんです。"お互いさま"の精神というのは、私たち日本人のDNAなんですね」