それが原因で’97 年3月に離婚が成立。’98 年には近藤アナに押し切られる形で再婚する。
「離婚に際し親権は三津五郎さん、養育権は寿さんになりました。慰謝料はなく子どもたちの養育費を彼が払うということに。寿さんが親権を主張しなかったのは、やはり巳之助さんは坂東家の跡取りで、その子を産んだという彼女のプライドだったと思います。でも、育てた子どもを自分のいない坂東家へ通わせるというのは、とてもつらいことだったと思いますよ」(大和屋関係者)
略奪婚となった三津五郎さんと近藤アナに世間の風当たりは強かった。だからか、入籍からわずか1年7か月後の’00 年6月に離婚してしまう。
その2度の離婚に一番影響を受けたのが子どもたち。特にまだ小学生だった巳之助にとって、この騒動は長い間、暗い影を落とすことになる。
「離婚して寿さんに引き取られた巳之助さんも初めのころは稽古のために三津五郎さんのもとに通っていたんです。でも、父への反発が強くなり高校は中退、稽古もさぼりがちになり、ついには歌舞伎界から離れてしまった。そんなとき、“梨園へ戻りなさい”と言い続けたのが寿さんだったんです」(前出・大和屋関係者)
1度は離れた歌舞伎界だが巳之助にとって、母の言葉が徐々に心をとかしていく。そして、久々に稽古場に戻ると三津五郎さんは「本当にそれでいいのか?」と温かく声をかけてくれたという。
「三津五郎さんは酔うと“ふたりの女性を傷つけたから、もう結婚はしない”とよく話していました。やはり、家族を捨てたことを後悔していたのでしょう」(松竹関係者)
歌舞伎役者にとって夫の代わりに後援会を仕切る女将さんは大切な存在。
「でも、その役割をここ何年かは次女の幸奈さんが担っていた。彼女は実家近くのマンションにひとりで暮らし、父親を支えた。巳之助さんも稽古に真剣に取り組むようになり、1度はバラバラになった子どもたちが、三津五郎さんのところに戻ってきたんです。’09 年に紫綬褒章を受章したとき、3人の子どもたちに囲まれた彼は本当に幸せそうでした」(前出の松竹関係者)
2月19日、病床に伏す三津五郎さんに幸奈さんは結婚報告をし、花嫁姿を披露した。母である寿も立ち会い、最後の家族写真を撮ったという。
「病床で三津五郎さんは寿さんの手を握り、“子どもたちを頼む”と祈るように託したそうです。寿さんは、“私はどんなことをしても子どもたちを守る”と母親として決意を新たにしていましたね。巳之助さんを立ち直らせた寿さんがついているんですから、彼はどんな困難にも立ち向かえるでしょう」(寿さんの友人)
寿は事務所を通じこうコメントしている。
《子供たちの配慮で、きちんとお別れさせていただくこともできました。これからも母として、微力ながら3人を見守り支えて参りたいと思っております》