岩手・大船渡で介護施設を経営している吉田英樹さん(35)。
「2人(両親)と最後に話をしたのは震災の8日前、3月3日です。一番下の娘の1歳のお祝いでした。僕がひとりで帰ると“何しに来たの”と言われましたが、孫を連れて行くと“よく来たね”と。孫がかわいくてしょうがなかったみたいですね」
両親と最後に会った日のことを覚えているが、どんな会話を交わしたかは、
「仕事でバタバタしていたこともあって、全然覚えていません」
陸前高田で生まれ育ち、高校時代は甲子園を目指したこともある。卒業後は上京するつもりだった。
「両親は残ってほしいという思いが強かった。形だけでもと考え、高校の求人票を見ながら両親に相談しました」
“あなたはやさしいから”“仕事をするなら人の役に立つ仕事をしなさい”という母の言葉に背中を押され、地元の社会福祉法人に介護の仕事を見つけた。
2007年12月26日、「きれいだな」と心を寄せていた和子さん(42)と職場結婚。4人の子どもに恵まれ大船渡の町で幸せに暮らしていた吉田家にも、あの日はやって来た。
「全然情報がなくて、陸前高田の知人に高田は壊滅的だと知らされて、父と母が心配で。テレビで被害の映像を見たときは、一体何が起こっているのか、現実を受け止めることができませんでした」
職場に寝泊まりしながら利用者のサポートをする一方、休みのたびに、両親を探した。父との対面は安置所でだった……。
「絶望でしたね。母も生きていないのではないかと。うすうすダメかと思いながらも、打ち消すようにまだ生きていると思っていましたけど」
病院で調理の仕事をしていた母の手がかりを探そうと、避難所を訪ね歩いたが、目撃情報はどこにもなかった。
「2012年6月、警察から母の安否の連絡がありました。顔写真と妹がプレゼントしたベルトで判明しました」
両親をいっぺんに失い、吉田さんは大きな喪失感に襲われた。何も手につかない、やる気も出ない。口数が少なくなる吉田さんに寄り添ったのは、妻の和子さんだった。
「文句を言ったりせず、見守ってくれました。本当に感謝しています」
吉田さんは13年間務めた介護施設を辞め3か月間休暇を取り、その後、県内の小規模デイサービスでリスタートを切った。震災の3年後、2014年3月には、自分で介護施設を立ち上げた。
「妻は、応援するよと後押しをしてくれました。父と母に何か残したいと強く感じ、2人から名前を一文字ずつ取って、会社の名前にしました。最後の親孝行かなと」
父・重郎さん(享年63)、母・智子さん(享年57)。会社の名前は「重智」に決めた。
「ケアマネジャーの事業から始め、軌道に乗るまでは、苦しかったですね。土曜日も営業を試みて失敗したり、人を雇う大変さを学びました。昨年10月には、訪問介護も始めました。大きくすることは考えていませんが、利用している人に喜んでもらえる、元気になって、繰り返し足を運んでもらえるような施設にしたいと思っています」
口コミで評判は広がり、仕事は順風満帆。4人の子どもはあの日から5歳、成長した。
「高校に通う子どもの送り迎えで、陸前高田によく行くんですが、年々思いが強くなっていますね。あそこで父とキャッチボールをしたなとか、孫と遊んでいたなとか、家はここらへんにあったんだなとか……。陸前高田は5年たっても全然進んでいません。1日も早く復興してほしいと思っています」