1日約4万人にのぼる食のプロたちが厳しい目を光らせ、食材の売り買いを行う築地市場。ここは古きよき時代の伝統を引き継ぎながら、約80年間、日本の食文化の一大拠点であり続けた。しかし、今年11月の豊洲移転に伴い、間もなく閉鎖されることになる。
そこで築地市場長を務める森本博行さん、築地市場の文化団体『銀鱗会』事務局長の福地享子さんに築地市場トリビアを教えてもらった。
■文化の中心なのに汚い日本橋にブーイング殺到!?
築地から豊洲に市場が移転するのは、老朽化以外に食品衛生の向上という狙いもある。元築地市場長の森本博行さんは、こう話す。
「日本橋も同じような事情で築地に移転しました。関東大震災で市場が壊滅的な打撃を受けた後、“2度と日本橋に市場を造らせるな”という声が多く上がりました。汚い、臭い以外に“うるさい”という苦情も多かったようです。
当時の東京府と警察の移転命令に、市場の人たちは“私たちは幕府の許可を得て、こんなに立派にやってきたじゃないですか”と、激しく反発したそう。でも、魚河岸側にも非はあって“日本橋魚市場のそばには公衆トイレがあったのに誰もそこを使わないからキレイだった”といったウワサ話がありました(苦笑)」
■産みの苦しみを味わった築地市場ドタバタ流通改革
「築地市場の開場は江戸時代から続く流通のあり方を一新する流通革命」
そう話すのは福地さん。
「日本橋魚河岸で魚問屋が急増し、不正行為が横行し始めたことで、“東京市営にしてほしい”という話が浮上。関東大震災で中央卸売市場開場へのめどはつきましたが、“仲卸1社統一”というやり方に市川房枝ら女性運動家、消費者が“築地で魚は買わない”と約40日の不買運動を起こします。
その後、市場は戦争のための配給拠点となり仲買解散。戦後の進駐軍接収・接収解除を経て復活するも、今度は高度成長期のトラック運送や人口増大が問題になり、移転が囁かれ始めました」
大田市場への水産物部分散や、築地市場再整備など試行錯誤の末、豊洲への移転が実現した。
■扇形の建物に隠された都市伝説のような真相とは?
「高度成長期に入ると、流通環境が悪くなり、移転問題が浮上しました。築地市場はもともと貨車便物流を想定し、同時に何両もの車両が入場できるようにした扇形構造になっています」(福地さん)
後に貨車便は廃止され、独特の扇形構造とそれによる“慣習”だけが残ってしまった。仲卸の店舗立地の不平等を解消するため、定期的に抽選による店舗移動を実施していたという。森本さんはこの扇形の設計について、
「軍隊の思惑もあったと思います。有事に備えて補給所や集積所を造りたかったのでしょう」
また、こんな独自の推測を展開。
「鉄道を敷いたのは津田沼の鉄道第二連隊だし、市場地下には防空壕があることもわかっています。勝手に掘り起こされては困るからかもしれません。あくまでも想像ですよ」
■築地で日本のクリーニングが発展
「現在、青果市場があるあたりには進駐軍のランドリー施設が置かれていた。水を使わず油で油を溶かすドライクリーニングは当時、日本で実に先進的な技術でした。進駐軍による接収が解除された後、民間に払い下げられた機械や習得した技術が広まり、日本のクリーニング業界の大きな一歩となった」(福地さん)
東京・下丸子にある白洋舍洗濯科学研究所に、当時を語る資料が残されているという。また、森本さんの口から衝撃の事実も。
「今は環境保全などの観点から、きちんと処理するようになりましたが、当時はドライクリーニングに使う有機溶剤は土に埋めていたそうです」