小学生と中学生がひとつの校舎で
甲佐で起こった3回の地震を証明する、動かなくなった時計が乙女小学校にある。教頭の廣田順子さんは前震のとき、行事の準備のため学校に残っていた。
「あれほどの地震は熊本では初めてでした。入学したばかりの子どもたちの家をまだ全部、把握していなかったので苦労しました。住所を頼りに訪ねていくと家が崩れていたり……。他の先生たちと手分けして支援物資を持って子どもたちの家をまわりました」
全校生徒123人、誰ひとり欠けることなく戻ってきた。だが校舎は使えない。小学校は甲佐中学の教室を借りて授業を続けることになった。地元のバス会社に頼んでスクールバスを稼働させた。
中学3年生のクラスの隣が小学1年生の教室だったが、地震に怯えていた子たちも、中学生に支えられて落ち着きを取り戻していった。
ようやくこの春、校舎や体育館の工事が終わり、卒業式には間に合った。校舎の壁には中学生から贈られた応援の寄せ書きが貼られている。被害は大きかったが、その中で、子どもたちは「譲り合うこと」「一緒に生きること」を学んだように見えると廣田教頭は話してくれた。ただ、今も職員室の床は歩くと足が沈み込む箇所がある。
家は全壊、夫が病に倒れてもめげず
冒頭で仮設住宅などを案内してくれた沼田峰子さんは『ぱん工房 ふうさん』を始めて15年になる。彼女は前出の乙女小学校の評議員でもあり、甲佐ブランドをいくつも開発している料理研究家だ。
ひとり息子が独立して、店の裏にある自宅で夫とふたり暮らし。
「前震のとき、冷蔵庫が窓を突き破って飛んでいきました。本震で家はほぼ全壊、夫に引っ張り出されてようやく外へ出たら、夜中の道がうねっていた」
同居していた実母を福岡の息子のもとへ避難させた。
「私たちは着の身着のまま店で生活していました。落ちた府領橋を見に行ったとき、先が見えない、何も手につかないねと泣くだけ泣いて」
そして彼女は立ち上がる。ファンの多い無添加のパンを必死で作り続けた。
仮設住宅への入居を辞退すると、地元の仲間が材料費だけで家を建ててくれた。ホッとしたのもつかの間、今度は夫が病に倒れてしまう。
「お金もない、夫は病気。ますます私ががんばるしかない。私は“明るい被災者”と呼ばれてるの(笑)。結婚して36年間ここに住んでいますが、今回、人の温かさを痛感しました。だからこそ町の人たちのつながりを失わないために何ができるか考えています」
甲佐の町の人たちはみな親切で温かい。そして元気だ。