<其之五>
(実質)西郷内閣が実行した、近代化の礎を築いた偉業

 維新後の新政府の中核を担っていた大久保利通、伊藤博文らが、欧米に派遣された岩倉使節団。その約2年間の留守を預かるために、太政大臣・三条実美を筆頭に西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らで結成された臨時体制が「留守政府」。実は、この西郷さんを中心とする体制は、学校制度、太陽暦の採用、徴兵制、司法制度の整備、キリスト教の実質解禁、鉄道の敷設、地租改正など、近代社会の礎を築く重要な改革を実行しているからスゴイ! 

 使節団が派遣される前に決まっていたこととはいえ、廃藩置県を断行したのもなんと西郷さん。自らが下級武士として立身出世したにもかかわらず、あえてその制度を瓦解(がかい)させる取り組みを本当にやってしまった実行力と胆力たるや恐るべし。

 同時に、国内の動向に注視してきた留守政府派と、欧米列強の現状に衝撃を受けた使節団派との軋轢(あつれき)を生むきっかけにも。これを機に西郷さんと大久保の関係に暗雲が漂うように。

<其之六>
無血開城を導いた西郷&勝のタマタマな関係

 2度目の島流しの地・沖永良部島にて、フィラリア感染症を発症してしまった西郷さん。その影響で陰嚢(いんのう)がお茶碗くらいに膨れ上がってしまい、晩年は馬に乗ることができず、移動時は駕籠(かご)を利用するほどデリーケートになっていたとか。

 そして、もうひとり、陰嚢にまつわる逸話を持っている幕末の偉人が勝海舟。9歳のときに野良犬に襲われ、局部を負傷。片方の陰嚢が破れて睾丸が落ちかかっていた(!!)重症だった模様で、外科医がなんとか縫い合わせ、約70日後に全快したと言い伝えられている。

 そんな陰嚢にまつわる珍エピソードを持つふたりが会談を重ねた結果、江戸城の無血開城を導いたのは偶然のタマものか!? 

 無血開城していなければ、首都は京か大坂になっていたと言われているだけに、タマタマではなく必然的に巡りあったふたりの英断があったからこそ、江戸の街はその後も首都として機能し続けることになるのである。