骨髄バンクへの登録をしたところ、マッチするドナーが見つかった。検査入院後の1年4か月の自宅療養と入院で、波はあるものの、日常生活を送れる体調は保てていた。

 20%の奇跡に賭けて骨髄移植を受けるべきか、ギリギリの段階まで今の生活を継続すべきか……。小崎さんは後者を選んだ。

「自分はどういう人生を過ごすんだろうと考えたんです。今は身体が動くので、そんな元気な状態で、死ぬかもしれない選択をするのは自分の人生にベストかな? と」

 2015年7月に職場復帰。睡眠は1日3時間という発病前の仕事ぶりを、大きくチェンジさせていく。

ヘルプマーク普及のきっかけ

 仕事は体調を第一にして出社も極力少なくした。経営者として業績悪化を心配したがそれでも売り上げは落ちなかった。それどころか、入院先まで商談に来てくれる顧客まで現れた。長尾さんが言う。

「人柄でしょうね、心配していろいろな本を持ってきてくれたりする人が周りにいて。可愛がられる人なんです」

 そんな職場復帰直後の通勤電車の車内で、小崎さんがヘルプマーク普及に取り組むきっかけとなった出来事が……。

「家から駅まで歩いて5分ほどだったんですが、その5分の道中が大変で……。ようやっと駅にたどり着き、電車に乗って優先席に座っていると、高齢の方から“ようそんなとこに座っとんな……”と」

 そんなことが3回続くと、高齢の人たちが乗ってくるのが怖くなった。余命宣告されている身でありながら白い目で見られるやるせなさ……。

 そんなとき、会社のスタッフから教えられたのが、ヘルプマークだったという。

 東京までは取りに行けないと、ヘルプマークの規格をもとにプレートを自作、病気を伝える文章を添えてバッグにつけると、高齢男性から「頑張ってな」と言ってもらえた。

 フェイスブックで体験を公開すると、切実なメッセージが押し寄せた。

「満員電車で押され、人工関節が壊れた経験があります」「視覚障害があるけれど、誰も気がついてくれない」など……。

 そんなとき、古くからの友人からの言葉が、小崎さんの心を揺さぶった。

「麻莉絵ちゃん、こうしたことって、もっと広く知ってもらわないと意味ないんじゃないの─?」