口紅で書かれた「疲れた」の文字
信男さんはよく、巣鴨の『とげぬき地蔵尊 高岩寺』の側道で植木を販売していた。
信男さんを知るという女性同業者は、その死を知ると、「うそでしょ? 4月の花見には来るって言っていたのに……信じられない」と絶句し、
「3月24日にも店を出していたけど、変わった様子はなかった。明るくてまじめな人」
近くでイカを販売している男性露天商はこう振り返る。
「ダジャレをよく言い、冗談が好きで明るく気さくな人だったよ。日本酒を飲みながら露店を出して、うちのイカをつまみにやっていましたよ」
周囲の評判もいい仕事熱心な父親の一方、病気がちの母親を支える息子は、
「とにかく優しかったなぁ。穏やかな人です。人が嫌がることは絶対にしない。母親の世話をするために仕事を辞めたんです。兄妹も近くにいたみたいだけど相談できず抱え込んじゃったのかな」(同級生)
3人の誰の筆跡なのかは不明だが、自宅の鏡には口紅で「疲れた」という言葉が書き残されていたという。
60代の半ばを過ぎ、持ち家から賃貸マンションへの引っ越しを余儀なくされた夫婦。
事情を知る人物は、
「本当は引っ越したくなかった。家は建てたけど土地は借地。地代を払えず、追い出される形で転居したと聞いた」
と一家の悔しさを代弁。
「奥さんも“せっかくローンを払い終わったのに”とがっかりしていたっけ……。家を取り壊す費用もかかり、経済的にも精神的にもどんどん追い詰められていったんだろう」
旧宅の、幸せだった暮らしが懐かしかったのか、
「転居された後も、よくこちらにはいらっしゃってました。美知子さんは“ここはいい”っていつも言って……。美知子さんひとりで来るときもあれば、息子さんと一緒のときもありました」(薬局の店主)
母親が元気だったころは、12月になると喫茶店の軒先を借りて1鉢2000円でシクラメンを販売する夫婦の姿。クリスマスが過ぎれば正月用の門松を深夜まで準備する父親の姿。愛犬を抱き、息子に支えられて出かける母子の姿。家族のそんな様子を覚えているのは、元の住まいの近隣住民たちだ。
家を追われ、徐々に疲弊していく生活に限界を感じたのか。愛犬を道連れに、家族は無念のままこの世を去った。
自宅マンションの前のコインパーキングには仕事に使っていたトラックが止まったまま。フロントのワイパーには『長期駐車警告』と書かれた紙、荷台には祐天ザクラや雪柳などの花がたくさん積まれているが、商品を手入れする人はもういない。