「それぞれ地域の付き合いが強かった人たちが寄せ集まっているので、顔も知らない人との人間関係を一から構築するのは非常に難しいんです」
この仮設は6ブロックに分かれ、それぞれに集会所が設けられているのだが、そこをどう使うかで揉め、派閥のようなものができ始めた。いつも同じグループが集会所を使っているのは不公平だ、というように。
自力で住居を再建して仮設を出ていく人が増えると、残った人たちの間で焦燥感も募る。その苛立ちが人間関係を悪化させることもある。しかし、お互いに譲り合ってやっていくしかないとみんなが気づき始めたのが、ここ半年くらいの状況だ。
「もうじき2年になりますが、今はここにあと1年住めることになった人がほとんど。ただ、今後、災害公営住宅を待つ人たちは、どこに入れるか、でまた不安になるでしょうね」(山本さん)
仮設住宅の中にある『地域支え合いセンター』に常駐している山本さんでさえ、住民たちの経済状況にまでは踏み込めない。
相談されれば行政や福祉の窓口につなげることはできるのだが、中には「年金もなさそうだし、経済的にどうやって暮らしているのだろうか」と心配になる住民もいるという。
山本さんたちは、「とにかく孤独死を出さないこと」を心がけてきた。
「特に高齢の男性は外に出てこないんです。そこで私たちは『バー・キャンナス』を月に1度開催してきました。男性限定の飲み会です。
飲みたいものを持参してもらって、私たちが料理を作る。ごはんだけ食べに来るのもOK。そこで顔見知りができて、ようやく外に出てくれるようになった人もいます」
つらいこともあった。仮設に住むようになってから、がんが見つかったひとり住まいの人がいたのだ。最後は緩和ケアの病院に入って、亡くなった。
「ずっと寄り添ってきたので、亡くなったときは胸が締めつけられる思いで……。でも、“あなたたちがいなければ孤独死したかもしれないよ”と言ってくれる方がいて、なんとかまた前を向くことができました」(山本さん)
「仮設に戻りたい」という声が多数
再来年の春には災害公営住宅もすべて完成する見込みだが、そこからが新たなスタートだと、支援者らは口をそろえる。
東日本大震災後、何度か視察に行っている『精神保健福祉センター』の保健師・宮本靖子さんは次のように言う。
「宮城県の南三陸町では仮設住宅にいた人たちがそっくり公営住宅に移っています。さらに、そこに一般のご家族も入居しているので、コミュニティーができやすいうえに活気がある。
子どもたちの声が聞こえる集合住宅はいいものです。熊本では、どんな災害公営住宅ができるのか、新しいコミュニティーの支援を続けていかなければいけないと思っています」
阪神・淡路大震災後の災害公営住宅の中には、現在、高齢者ばかりになり介護施設と連携せざるをえないところもある。先まで見据えて公営住宅を設置していく必要がある。
災害公営住宅は壁も厚く仮設に比べて格段にプライバシーは保たれる。同時に仮設では意識的に設けられた集会所や憩いの場がなくなり、支援者らもその段階から見守りができなくなる危険性もある。
「実際、東北では“仮設に戻りたい”という人が増えています。仮設は壁が薄くてうるさいと思っていたけど、人の気配がない災害公営住宅は孤独感が募るようです」
宮本さんはそう言う。
大災害からまだ2年。復興も心の治癒も道半ばだ。どうしたら孤独や孤立を深めずにすむのか。これは決して熊本だけの問題ではない。
「『こころのケアセンター』も、災害公営住宅が完成すれば、いずれ閉鎖ということになるかもしれない。でも私たちは支援を続けていきたいと思っています。現実的には災害公営住宅に移ってからが生活再建のスタートですから」(矢田部さん)
取材・文/亀山早苗
1960年、東京都生まれ。女の生き方をテーマに幅広くノンフィクションを執筆。熊本県のキャラクター「くまモン」に魅せられ、関連書籍を出版。震災後も20回熊本に通い、取材を続ける。著書に『日本一赤ちゃんが産まれる病院 熊本・わさもん医師の「改革」のヒミツ』