当時、生まれたばかりの長女はまだ1歳。妻のお腹の中には妊娠7か月の赤ちゃんもいた。よりによって今このタイミングで、と目の前がふさがる思いだった

 17歳下の妻・美紀は、秀樹が入院して以来、献身的に支えてくれた。

「大きなお腹を抱えて毎日病院に通い、病院の食事では味気ないだろうと気遣い、栄養とおいしさのバランスを考えたメニューを用意して、食べさせてくれた」

 喉と唇にマヒが残っていたうちは、ヨーグルトやゼリーをスプーンですくって食べさせ、固形食が食べられるようになると、脂肪や塩分の少ない材料を使ってチャーハンを作り、病院まで届けた。愚痴ひとつこぼさない妻を見て、秀樹は胸がつまった。

「妻や子どもたちのためにも、1日も早く後遺症を克服して元気になりたい、そう思っても身体はなかなか言うことを聞いてくれないんだよ」

 倒れてから3週間後、マスコミ相手の記者会見を控え、秀樹は弱音を吐いた。

「もう、歌手を辞めなくちゃならないかもしれない」

 そうつぶやく秀樹に、

今すぐ結論を出さなくても、いいんじゃないですか

 妻のその言葉に、秀樹は救われた。

美紀があせっていないことを知って、これなら頑張る時間がもらえる。ちゃんとゆっくり治して、もう1度、復活しよう

 そう心に誓った。そして、自分の胸で安心しきって眠る1歳の娘・莉子の顔を見て、

「マイナス思考はだめだ。顔を上げて、いや顔が動かなかったら目線だけでも上を向いていこう」

「カッコいい自分」を変えた女性

1976年「ヒデキ、感激!!」のCMや『ジャガー』が大ヒット
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 1972年、“ワイルドな17歳”というキャッチフレーズでデビューした西城秀樹は'73年に5枚目のシングルとなる『情熱の嵐』がヒット。

 激しいアクションに加えて、持ち前のハスキーボイスで歌い上げる絶唱型のボーカルスタイルでスターダムにのし上がり、郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」として歌謡界に確固たる地位を築いていった。

 このころの秀樹に、デビュー前の歌手・早見優は、少女時代を過ごしたハワイで会っている。

『スター誕生!』のハワイ収録で秀樹さんが来たんです。“サインください!”って言ったら、お弁当を食べている最中だったんで“ごめんね、あとで”って言われて、内心もうダメかなと思ったら、食べ終わって後ろを振り返って“いいよ!”って呼んでくれたんです

 デビューした後にそのことを伝えると、秀樹は真っ黒に日焼けした少女のことを覚えていてくれた。そのことが早見にはうれしかった。

 『激しい恋』のジャケット写真の撮影以来、40年近い付き合いのカメラマン・武藤義はこう語る。

ざっくばらんで、あれだけのスターなのに偉ぶらない。撮影の時も自分からアイデアを出したり何をやっても一生懸命なところが魅力です。ただ雨男というか、海外ロケで現地に入ろうとすると天気が荒れる。ところが、いざ撮影になると晴れるんだから、まさに嵐を呼ぶ男だよ(笑い)

 ヒット曲が続き、テレビの歌番組やドラマに出演するようになると、芸能界にも友人、知人がたくさんできた。

「当時の思いはただひとつ。カッコいい自分でいたいと思った。わかりやすく言えば、ブランドものの服を身につけ高級外車に乗り、夜は仲間たちと繰り出して、みんなにうまい酒と料理を振る舞う。これがカッコいい生き方だと、単純に思っていた」

 少年のころの夢を叶え、スターとなった秀樹に、怖いものなど何もなかった。

 その秀樹を変えたのが、生涯の伴侶となる、17歳下の美紀との出会いだった。