「がん宣告を受けてから、約半年後の'16年2月。容子は“私たちがたどってきた物語を書くから、あなたも書いてね”と言ってきました。最初に彼女が書き、それに対する返信という形で私が書き加える。まぁ、交換日記のようなものです(笑)」
《あなたと初めて出会った日のことを覚えていますか》(容子さん)
《もちろん鮮明に覚えています。キミは緑色のコートを着て、山田直子さんと歩いていました》(宮本さん)
詩『七日間』の最後の願い“ふたりの長いお話しましょう”は、この『二人の物語』のことを示している。18歳の出会いから、大学生活、結婚、子育て、マイホーム取得……。ふたりだけの思い出を深く語り合う場となった。
「最初は照れくさかったのですが、容子の文章を読んでいるうちに、私も忘れていた記憶が蘇ってきました。でも書籍にまとめるということがなければ、決して読み返さなかったと思います」と、宮本さんは声を詰まらせた。
『二人の物語』で終わりではなかった
'17年11月、それまで自宅療養していた容子さんだったが、毎日続く嘔吐から身体が衰弱して入院することに。
「突然の入院となりましたが、すぐ帰るつもりでした。だから身の回りのことを何も片づけていなかった」
だが、宮本さんの意に反して、永遠の別れは突然訪れてしまう。'18年1月19日午前5時、宮本さんに手を握られながら、容子さんは帰らぬ人となった。彼女の死後、遺品整理をしていると“あるもの”の存在を知ることになる。
「容子がノートや手帳につけていた日記がたくさん出てきたんです。彼女は書くことが好きなのは知っていましたが、読まれるのはイヤな性格なので見せてくれなかった」
そこには、『二人の物語』では語られることのなかった彼女の本音が書かれていた。