知らないうちに兵器を作らされていた
「うさぎの島」として知られる、瀬戸内海に浮かぶ大久野島(広島県竹原市)。三原港から船で行くと、アナウサギたちが迎えてくれた。
実は、島にはもうひとつの顔がある。第二次世界大戦中、毒ガス製造工場があったのだ。当時、毒ガス製造は国際条約で禁止されていた。その製造に関わり、いまでは語り部となっているのが元美術教師、岡田黎子さん(88)だ。
島では、1929年から'44年までの間、学徒動員で5種類の毒ガス、6616トンが作られていた。岡田さんは'44年11月、動員学徒として島に派遣され、毒ガスと知らされずに兵器を作っていた。作業内容は、主に3つ。
「1つは発煙筒作り。“敵の戦力を弱めるための煙幕”と言われていましたが、実際は毒ガスが入っていました。2つ目は、偏西風を利用し、アメリカへ飛ばすための気球爆弾の球体部を作りました。和紙をこんにゃくのりでつなぎ合わせるのです。それから、毒ガスを運搬しました」
製造に関わった人たちは毒ガスの被害にあっていた。例えば、イペリットガスは致死性のびらん性ガスで、視覚障害、呼吸器障害、消化器障害などの症状が出たという。
「'86年までに死亡した学徒の89%はがんでした。生きている人は慢性気管支炎になっています。従業員の場合、がん死は通常の2倍でした」
'45年8月15日。日本は戦争に敗れた。同時に動員は解除となった。そのとき、校長から広島市内へ救護に行くように命令される。そこで被爆することになる。入市被爆だ。これも被害の側面だ。
一方、昭和天皇が亡くなろうとしているとき、岡田さんは戦争の時代を振り返った。
「国民全員がやった戦争。自分も知らない間に殺人兵器を作っていた加害者です」