初連載と引き換えに失ったもの

 ’78年9月号から連載が始まった『おしゃべり階段』は、中学2年のちょっぴり自分に自信のない天然パーマの少女・加南が大学に入学するまでを描いた物語。

「私は中学生のころがいちばん好きです。未完成な魅力っていうか、何をしでかすかわからないから、突拍子もないことをやってくれそう。中学生なら許しちゃおうかと思えます。自分の記憶を思い返しても、中学に上がったとき、ものすごく変わったなぁと思っているので」

 思い悩むことを肯定して、大人への階段を寄り添うように上ってくれるこの作品は、当時ティーンのバイブルと言われた。

 ところが、ふさこはこの連載を引き受けるために、大きなものを失う。

「連載が始まる時期と卒業制作の時期が重なってしまい、6年通った大学を泣く泣く退学せざるをえませんでした」

 中退と引き換えに手にした初めての連載だけに、思い出もひとしお。この作品から、ふさこのアシスタントを務めた漫画家の小塚敦子さんは、当時のふさこの様子をこう思い出す。

「この作品をとても楽しそうに描いている先生の姿をよく覚えています。ただ、仕事に対しては完璧主義で、気に入る線が描けるまで何度でも描き直していましたし、ネームについても、とことん粘っていましたね」

 小塚さんは、高校を卒業後に静岡から上京。駒込のふさこの自宅に住み込み、アシスタント生活をスタートさせた。

「先生のお母さんは“よそ様の大切なお嬢様をお預かりしたのだから”と言ってくれて、家族同様のお付き合いをさせていただきました。お母さんの作られた手料理の数々がどれも美味しく、今も忘れられません。こうした家族との絆(きずな)が先生の作品を支えてきたのかもしれませんね」

笑顔の絶えない仕事場で、よく食事にも出かけた。左・くらもちさん(撮影/丸山桂賛)
笑顔の絶えない仕事場で、よく食事にも出かけた。左・くらもちさん(撮影/丸山桂賛)
【写真】くらもちさんの幼少期、学生時代、貴重な原画など(全8枚)

『おしゃべり階段』の成功でプロの漫画家として認められたふさこは、1980年、代表作のひとつ『いつもポケットにショパン』を世に送り出す。

 物語は、幼なじみの麻子と季普がピアニストの母親同士の過去の因縁から、お互いをライバル視。

 やがて、ドイツに留学した季普が事故に遭い、消息を断つというダイナミックな展開を見せる。ふさこ自身はこの展開について、

「この作品の話題に触れるとき、私は必ず口走ってしまう言葉があります。それは“なんでこんな派手な話になっちゃったんだろう”です(笑)。

 本当はもっとメルヘンチックな作品になるはずだったのに。でも、思わぬ展開は自分にも新鮮で楽しめました。それまでの作品は、ヒロインよりヒーローへの思い入れがはるかに深いものがほとんどでしたが、今回はヒロイン麻子のキャラをメインに押しました」

 ふさこ自身、高校までピアノを習っていたとはいえ、初めて音楽作品を描くにあたり、音楽学校やピアノの演奏会にも足しげく通い、専門書はもとよりコンサートのチラシに至るまで、ありとあらゆる資料を必死にかき集めた。

 当時の状況をアシスタントの小塚さんは、

「今ならスマホの動画を止めながら描けばいいのですが、当時はそうもいきません。先生はヘッドホンで1日中クラシックを聴きながら、資料と格闘していました」

 と話す。

 この作品の中でも重要な役割を果たしているのが、演奏会でヒロイン麻子が弾く『ショパンのバラード一番』や『ラフマニノフのピアノ協奏曲二番』。

「特に『ラフマニノフのピアノ協奏曲二番』は映画音楽としても有名ですが、初めて聴いたときの衝撃は忘れられません。音楽をする人は感情がとても豊か。来る日も来る日も、自分の感情を叩きつけるようにしてこの作品を描きました」

 クラシックの名曲に彩られた珠玉の名作『いつもポケットにショパン』は、数々の名場面とともに、今も少女漫画ファンの間で語り継がれる作品となった。